三尺左五平は、仙台藩出身の居合の名人だったといわれ、その特技や奇行により伝説的付加が多く、特に明治28年(1895)、新聞に「三五平」が連載されてから、フィクションによる虚像が膨らみ、今日語られている三尺左五平像となった。

左五平は、身長が三尺三寸と非常に小さく、容貌は風采が上がらないが、生まれつき身軽で、剣術を習い修練を重ね、据物斬と早斬にかけては非凡の達人となった。身長が小さいながら、身長に合わない大刀を腰にしていたが、刀のこじりに、自分で車を取り付けていたという。

昭和19年(1944)に喜劇役者エノケンを主人公にして映画化され、一躍有名になったが、その実像は定かではない。

旧仙台領内には、この「三尺左五平」に関する伝承が数か所伝えられており、それは以下のようなものである。

・首なし地蔵

仙台市太白区の大日如来堂の脇に、首のない一体の地蔵が祀られている。この地蔵には、次のような話が伝えられている。

昔、この大日如来堂の近くに夜な夜な妖怪が出て人々を悩ませていた。この辺りは、当時は杉の大木がうっそうと茂る、昼でもうす暗い所で、夜になるとその妖怪は唸り声を上げ、道行く人の前に現れ立ちふさがり、このため里人たちは恐れ、この地を通るものも少なくなった。

当時、仙台藩に左五平という居合い抜きの達人がおり、里人たちはこの左五平に妖怪退治を頼んだ。左五平は夜更けを待ち、妖怪が出て来るのを待っていたが、案の定妖怪が現れ、左五平は得意の居合い抜きで一気に切りつけた。翌朝その場所に行ってみると妖怪の死骸はなく、石地蔵の首がゴロリと落ちていた。それ以来この地に妖怪は出なくなり、平和な里になったと云う。

・袈裟懸け地蔵

仙台市の西隣の川崎町の竜雲寺境内には、斜めに断ち切られたような石地蔵があり、袈裟懸け地蔵と呼ばれている。

三尺左五平のモデルの一人と考えられる梁川庄八は、慶長年間(1596~1615)の末期、主君の意に反し親の仇を討ったために主君の怒りに触れ出奔し、川崎の寄る辺を頼って隠れ住んでいた。

この頃、川崎街道には狐狸妖怪と思われる大入道が夜な夜な現れ、里人や旅人を襲っては金品を奪うなどして悩ましていた。これを聞いた庄八はその難儀を救おうと、夜が更けるのを待ち、大入道が現れるという龍雲寺付近にやってきた。

龍雲寺の門前にさしかかると、雲をつくような大入道があらわれ襲ってきた。庄八は得意の居合いで、それを一刀のもとに斬り倒した。

翌朝確かめてみると、路傍の石地蔵の右肩が袈裟懸けに削げていた。その後、大入道があらわれることはなくなり、この石地蔵は「袈裟懸け地蔵」と呼ばれるようになった。

・団子勝負

仙台市太白区の愛宕神社の参道には、昔、名物団子を出す茶屋があった。茶屋はいつも繁盛しており、茶屋の親父は団子に素早くあんこをつけて客を待たせることはなかった。左五平はこの茶屋でよく団子を食べて、親父のその手際に感心していた。

左五平と茶屋の親父は、茶目っ気からか勝負することになった。左五平が刀を抜き鞘に収める、その間に茶屋の親父は刀にあんこをつける。左五平が勝ったら団子代はただに、茶屋の親父が勝ったら店の団子を左五平が全て買い取ることになった。

多くの参詣者が見守る中で、左五平が刀を抜く、パチンと鍔鳴りの音がして頭上から木の枝が落ちてきた、目にも見えない早業だったが、木の枝が切られたことで左五平は間違いなく刀を抜き鞘に納めたことは明らかだった。誰しもが、その目にも止まらぬ早業に驚いた。しかし茶屋の親父は「だんな刀を見てくだせえ」と言う。左五平が刀を抜いてみると、なんと刀にはべったりとあんこが付いていた。

左五平は、茶屋の団子を全て買い上げ、殿様に謙譲したところ、この団子屋は、お城のお抱えになったと伝えられる。


旧仙台藩領内に伝えられる三尺左五平の伝説のモデルと思われる人物は、本田左五平、田中三平、梁川庄八が上げられるが、本田左五平と田中三平は、身長が小さく、居合の達人であり、また、伊達騒動の際には、茂庭周防に近い立場にあることから、同一人物の可能性が強い。梁川庄八は、伊達騒動の際に茂庭周防を襲撃したようで、その立ち位置は反茂庭側とみられ、またその伝説は伊達騒動の史実にそれなりに沿っており、実在した別人物と考えられる。

梁川庄八は、仙台藩を出奔し、各所を放浪し、それぞれの地でのエピソードが、虚実ないまぜの漫遊記として、講談で語られるようになり、次第に三尺左五平の伝承と重なり一体化していったものと考えられる。

本田左五平は、仙台藩の足軽で、仙台市宮城野区の見瑞寺に三代にわたる「左五平」の墓がある。初代左五平は、生まれつき身が軽く、早くから剣術を志し修行を重ね、据物斬と早斬を得意とした。その武芸への情熱と努力が認められ、士分に取り立てられ、本田家の初代となった。江戸勤番中には、旗本らの町中での狼藉に対して、得意の居合でこれを懲らしめたとの伝説が残っている。

田中三平は、仙台藩重臣の松山茂庭氏の足軽の家に生まれた。体は小さく、いっこうに風采が上がらない風貌だったが、剣術指南の小沢郷助に師事し、修練を積み、居合の達人になった。

梁川庄八は、伊達家譜代の家臣の梁川氏の家系に生まれ、伊達騒動の流れの中で、伊達家の重臣を斬り獄へつながれた。しかし老僕の手引きで脱獄に成功し、その後は奥州を離れ諸国遍歴の旅に出たとされる。
戦前には講談で盛んに取り上げられ、「化け地蔵退治」は人気演目の内の一つだった。上総東金では危機に瀕した祭礼の素人相撲に介入、さらに安房館山ではさびれた旅籠を立て直す手伝いなど、至る所で善行を重ね、正義の味方の素浪人であったと伝えられる。

伊達騒動の時代、三代藩主伊達綱宗の強制的な隠居から始まる伊達騒動の時代、藩内は大きく二つに割れ、憤懣を抱えた若侍たちが、それぞれに元凶と考える伊達兵部や茂庭周防の襲撃を企て、捕縛され、広瀬河原で斬罪に処され、また関りを持った小者たちも、家禄没収や追放などの憂き目にあったようだ。

寛文事件により、伊達騒動に決着がつき、仙台藩の領民たちは、暗い時代を払しょくするように、処刑され、あるいは追放された者たちが残した伝説をふくらませ、三尺左五平の伝説を作り上げ、後世に伝えたもののように思える。