この時期、伊達氏は伊達政宗が輝宗の跡を継ぎ、人取橋の戦いで佐竹氏を退け、破竹の勢いで南奥制覇に乗り出していた。しかし大崎氏は相も変わらず家臣の反乱や家臣同士の争いが続いていた。

このような時期、大崎義隆は伊庭野惣八郎と新井田隆景という2人の美少年を寵愛していた。しかし、その寵愛は次第に伊庭野惣八郎に移り、新井田隆景は新井田城に身を引いた。しかし天正14年(1586)、隆景は、主君の大崎義隆を強引にこの新井田城に軟禁した。隆景は、大崎氏の重臣で父の里美隆成を背景とし、伊庭野惣八郎追い落としを図ったが、里美隆成の息子の寵愛を盾に権勢をふるってきたことを良しとしない勢力も多く、伊庭野惣八郎は、大崎氏の重臣の氏家吉継を頼り、大崎氏家中は新井田派と伊庭野派に大きく割れた。

しかし新井田派は、軟禁していた大崎義隆を懐柔し擁することに成功し、氏家弾正らの反対派を討つ行動に出た。これにより伊庭野派は進退に窮し、氏家弾正は、伊達政宗に奉公を誓い援助を願い出た。、伊達政宗は氏家党救援を名目として大崎領内への侵攻を決した。

伊達家が動員した兵数は、一万数千人というものであった。しかし、この時期、伊達氏は反伊達連合軍が活動する福島仙道方面や、葦名氏に対する会津作戦に忙殺されており、また、伊達氏と対立して大崎氏を応援する最上義光は、政宗が大崎に出陣すれば、留守になった伊達の本居城の米沢城に対して兵を向けることは必至であり、伊達政宗は米沢城を動くことができなかった。このような状況の中で大崎合戦は始まった。

政宗は陣代として浜田伊豆、総大将は一族の留守政景と重臣の泉田安芸を任じてそれぞれ兵を率いさせた。伊達軍の装備はいずれも最新式で、兵の訓練もよく行き届き、大崎氏のそれとは比較にならなかった。大方の見方は伊達氏の一方的勝利に終わるものとみられていた。

天正16年(1588)1月、伊達の大崎侵攻軍は志田郡千石城に集結して、全軍を先陣と後陣の二手に分け、先陣の大将は泉田安芸が当り、大崎方の拠点である中新田城攻撃に兵を進めた。後陣の大将は留守政景で、師山城の南に陣を布いて大崎方の出方を伺った。大崎方は、中新田城を主城として、桑折城、師山城、そして下新田城に兵を入れて伊達軍の進撃を待ち受けていた。

桑折城主は、渋谷氏だったが、それに、黒川月舟斎(晴氏)が助勢として入っていた。黒川月舟斎の娘は、伊達の総大将の一人である留守政景に嫁いでおり、政景とは婿舅の間柄であったが、嗣子には大崎義隆の弟にあたる義康を迎えてもいた。

伊達軍の先陣は、中新田城を目指して桑折城・師山城の線を越えたが、大崎方からの攻撃はなく、雪の大崎原野を怒濤のように進撃し、中新田城への攻撃を開始した。中新田の城将は南条下総守で、兵を叱咤してよく伊達軍の攻撃を防いだ。この大崎の地は雪の多い土地柄であり、南条下総守は、伊達軍の猛攻にさらされながらも、間もなく大雪が来るということを確信していた。それでも、歴戦の伊達軍の攻撃はすさまじく、中新田城は三の丸・二の丸が落され、本丸を残すのみとなった。

そしてついに大崎地方に大雪が降った。2月2日、泉田重光率いる伊達軍先陣は、城を囲む低湿地帯と大雪により身動きが取れなくなり、撤退を余儀なくされた。これを好機と大崎軍は城から打って出て、伊達軍を追撃撃破した。さらに、桑折城の黒川月舟斎は、救援に向かう伊達軍後陣の後方から襲いかかった。挟み撃ちにされた伊達勢は潰走して新沼城へと撤収したが、大崎勢に城を包囲されてしまった。

兵糧も十分ではない中、新沼城に閉じ込められた留守政景は、2月23日、舅の黒川月舟斎による斡旋を受けて、泉田重光・長江月鑑斎を人質として提出する代わりに城の囲みを解くことを条件に和議を結び、29日に新沼城を出て敗残兵を収容しながら後退し、千石城に戻った。

この合戦は大崎方の会心の勝利に終わり、大崎氏側は永年圧迫を受けていた伊達氏に一矢を報いた。しかし、大崎氏が伊達氏に勝利したとはいえ、伊達氏の正規軍ではなく、伊達氏のつぎの攻撃を退けるだけの力はすでに大崎氏にはなかった。そして、最上義光の妹で、政宗の母にあたる保春院の仲介により、伊達氏と大崎・黒川・最上三氏との間に和議が成立した。

しかし、和議とはいえ、大崎氏家中の分裂は、修復不可能な状態で、伊達氏が本格的に精鋭を送り込んでくればひとたまりもないものであることは明らかだった。大崎合戦が大崎勢の勝利に終わったが、結果的に大崎氏は伊達氏の軍門に下るしかなかった。

伊達政宗は、天正17年(1589)、摺上原で会津の葦名氏と戦い大勝し会津黒川城に入城し、ついで二階堂氏を攻略し南奥州を支配下におさめた。政宗にとって大崎地方は手中にしたも同然であり、政宗は、いまだ勢力を保持している大崎氏を徹底的に武力討伐して、大崎地方の領有を確固としたものにしようと決心した。

政宗は大崎地方周辺の家臣に準備を命じ、大崎家中に調略の手を伸ばした。しかし、この計画は中央情勢の急迫により実行されるまでには至らなかった。この年、豊臣秀吉は小田原征伐の出陣命令を下し、一挙に関東から東北地方を支配下におさめ、天下統一を完成させようとしていた。伊達政宗は、すでに大崎氏にかかわっている場合ではなくなっていた。

翌天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されたが、大崎義直は領内不穏で参陣が叶わず、大崎氏同様に小田原参陣を果たせなかった葛西・和賀・稗貫らの諸氏とともに領地没収の処分を受けた。大崎義隆はその後、石田三成を頼って京都に上り、大崎氏再興をはかったが、その後の大崎葛西一揆によりその望みも水泡に帰し、義隆は上杉景勝預かりとなり、慶長8年(1603)、会津で没したと伝えられる。