十和田滝ノ沢峠を後にして、国道103号線を北上し八甲田に向かう。八甲田は広大な十和田八幡平国立公園の北側になり、十和田湖からは一続きの緑の回廊を走ることになる。いや、正確に言えば、十和田湖周辺ではわずかに紅葉は早かったが、八甲田に入っていけば、そこは紅葉真っ盛りだった。
八甲田に入り、まだ訪れていなかった蔦温泉を訪れた。蔦温泉は酸ヶ湯温泉とともに、八甲田を代表する温泉で、大町桂月ゆかりの温泉で、その墓もあると聞いて訪れた。桂月は終生酒と旅を愛し、特に十和田湖と奥入瀬を愛し、八甲田の蔦温泉で旅の終焉を迎えた。旅人の端に連なる者として、松尾芭蕉、菅江真澄とともに、桂月は大先輩である。
松尾芭蕉は、奥の細道の序文で
『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり』
と記しており、旅の途中で没した。菅江真澄も桂月も旅を栖とし、旅を枕として没した。
私は、これら先人たちと比べて、まだまだ俗物根性が抜けていない。世の中の動きも気になるし、帰ってYouTube動画も作らなければならない。なかなかに、我があこがれのフーテンの寅さんのような生き方はできないでいる。
蔦温泉の旅館の、恐らくは当時の面影を残す温泉の旅館を写真に収め、桂月に敬意を表しその墓を訪ね手を合わせた。
蔦温泉を後にし、国道102号線を紅葉を楽しみながら、八甲田山系の中心部に入っていく。八甲田は、約65万年前と40万年前に巨大噴火を起こしたという。歴史時代に入ってからは大きな噴火はないが、現在も各所から火山性ガスを噴出している。八甲田の中央部を東西に走る国道103号線をのんびりと走っていると「睡蓮沼」の表示があった。八甲田山系には多くの湿地帯が点在し、睡蓮沼はそのうちの一つで山系の中心部に位置している。
睡蓮沼は、八甲田の代表的なスポットだった。八甲田では本当は雲の動きを撮影したいと思っていた。しかしこの日は風は強かったが、雲一つない快晴だった。以前も訪れていたが、今回は動画を撮影するつもりだった。それもあり雲の動きが欲しかった。しかし自然はそう旅人の意のままの姿を見せてくれるわけもない。
写真を撮ろうと考えるとき、ある者は、頭の中で勝手に描いた絵を風景に求める。以前聞いた話だが、桜吹雪を撮りたいと考えたあるテレビ局のカメラクルーたちが、無理やり木に登り桜の花を散らしたことがあり問題になったことがある。うまく絵に収まるかどうかは別よして、雨の時、霧の時、晴れの時、台風の時でさえ、自然ははっと思うような美しさを見せることがある。本当は自然が見せる一期一会の光景が好きで歩いているのに、それを忘れ俗物根性にとらわれてしまっていた。
しきりに反省しながら睡蓮沼のほとりに立った。針葉樹と広葉樹の入り混じったこの地の紅葉はその背後の青空も含め最上のもので、まったく陰のない美しさだ。三脚をセットし、雲の動きが撮れない分を、風に揺れる湿原のしこ草を前景としてカメラをまわした。観光客の方々が入れ代わり立ち代わり、歓声を上げてこの風景を愛でていく中、およそ1時間ほどもベンチに座り風の音を聞いた。
睡蓮沼を後にし、酸ヶ湯温泉を通り、城ヶ倉大橋を写真に収め、野辺地町に向かい八甲田の北側にまわった。この八甲田の北側には、点々と雪中行軍遭難事件に関する表記が見られる。
明治45年(1902)1月の厳寒期、日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山で雪中行軍の訓練を行った。訓練の参加者は210名で内199名が死亡した、世界最大級の山岳遭難事故となった。
途中、小高い地に雪中行軍遭難碑があり、生存者の一人の後藤伍長の像が立っている。部隊は3日目には吹雪の中、完全に道を失い凍死者が続出し、部隊は一旦解散し各自の判断で救難隊を求めたようだ。後藤は、総指揮官の神成大尉と2人だけで行軍していたが、ついに神成大尉も倒れ、後藤は意識が失われている中で前進し、そのまま佇立したまま仮死状態になっていたところを救難隊に発見され、蘇生した後藤の報告から大遭難事故が発覚したという。
心なしか、風が幾分か強くなり、明るく美しい光景の中で、ススキの穂を大きく揺らしながら泣くように吹いている。車を停めて、ススキの野に三脚を立て、泣くかの如くのススキの原を撮った。もしかしてこの日の八甲田は、私にこれを撮らせたかったのかもしれないとふと思った。