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昨日は、八甲田から近年復元された千石船を目当てに野辺地に抜け、その後青森市周辺の未訪問地数か所をまわった。この日の目的は、以前探せなかった、青森市浪岡の北畠氏初期の館跡の源常館跡と、大浦為信の津軽統一の過程での争乱の城の平川市の高畑城跡だった。

源常館の場所は、以前来た時にほぼ特定しており、写真も撮ってはいたが、城塞として納得いくものではなく、日没のために途中で断念していた。また高畑城跡は、以前探したが、その場所すら特定できなかった。

源常館は浪岡城址の東1kmほどのところにある北畠神社の地だ。しかしその地には真新しいコンクリート製の社があるだけで、城館としての様子が見られない。この日の訪問はそれが納得いかなかったからだ。

北畠神社は住宅地とリンゴ畑が続く台地上にあり、その台地への上り口に大銀杏がある。今回は大銀杏のある台地の西端から、しげしげと北畠神社の方向を眺めた。すると前回は見えなかった城館の様子が見える感じがする。

この台地の南側には正平津川が流れ、北側は急斜面になっている。北畠神社に向かう道の左側は、尾根が伸びており、道を見下ろす「郭」に見えてきた。こうなると、神社への途中の左右にあるリンゴ畑も、俄然、「郭跡」に見えてきた。この東西に延びる尾根は、北畠神社からは平坦になり、この地を主廓とすれば、この尾根を断ち切る空堀があるはずだと考え、尾根上の道をさらに東に進んだ。すると不自然な南北に走る窪地があった。

歴史好きなどたわいもないものだ。このリンゴ畑の中を通る田舎道の台地は、完全に北畠氏の館に見えてきて、恐らくはここには柵が設けられ、あそこには見晴らしの櫓がという具合に思えてくる。それは高畑城跡ではなお一層ひどいことになった。

高畑城跡は住宅地のど真ん中にあった。その住宅地の中にぽっかりと空いた空き地の真ん中に、曰くありげな祠があり、その先の一段高いリンゴ畑に城址碑を見つけた。平城であり、一見しては激戦に耐えられる城とは見えず、周囲を歩き回る。城址碑のあった微高地の周囲は、複雑に入り組んだ用水堀がある。コンクリートの三面張りの用水路は、その周辺部まで含んだ水堀だ。その間を走る畦道は、武者走りだ。その周辺部は深い湿地で囲まれていただろう。この城は、南部勢の主力軍を撃退したのだ。住宅地に囲まれたリンゴ畑の中の、三面張りの用水路の脇で、鳥肌立てながらシャッターを切り続けた。(ほとんどアホだ)

その後、弘前市の愛宕神社に向かった。日が短くなったこの時期、これが今回の最後の歴史散策になるだろうと思いながら、カーナビに従って走っていると、リンゴ畑の小高い山道に導かれた。全山リンゴ畑で、その中を山に直登するコンクリート舗装のありえないほどの急な坂道だ。不思議に思いながらもカーナビの指示の通り登りきると、そこは浄水タンクだった。恐らくは、この山が愛宕山で、神社は反対側なんだろうと考え車を回すと、なんと目の前に、美しく裾を引く岩木山があった。夕日の絶好のポイントだ。

当然、愛宕神社の帰りに、この急なコンクリート舗装の急坂を登り、坂道の途中に三脚を立てて、岩木山の裾に沈む夕日を撮り始めた。この愛宕山は岩木山の南東およそ9kmの地点で、岩木山麓まで遮るものなく開けている。逆に言えば、この地はかなり遠方からでも見えていると言うことであり、このリンゴの出荷時期の夕暮れ時に、リンゴ畑のど真ん中の急坂途中に車を停めている。「ちょっとやばいかも」と思いながらも、この絶景を途中であきらめることなどできるわけもない。

しばらくすると、やはり不審者と間違われたようで、車が登ってきた。車から降りてきた地元の方らしい男性は、三脚のカメラをちらっと見て、岩木山に沈もうとしている夕日を眺め、あとはこの地の自慢話をいろいろと話してくれた。

今回の放浪は、この地が最後だった。放浪の神様は、今回は最後の最後にこの一期一会の絶景を見せてくれた。