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対馬は、日本の「国産み神話」の中では、淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で国産みがなされたとされ、神話の時代から日本の大八洲の一つとしてかぞえられていた。

地理的な条件から、古くから大陸との交流があり、朝鮮半島と倭国をむすぶ交通の要衝だった。『魏志』倭人伝では、「対馬国」は倭の一国として登場し、邪馬台国に服属した三十余国のなかの一国との認識だった。

古墳時代初期に築かれた出居塚古墳は、ヤマトで生まれた古墳形態の前方後円墳で、その出土品も、古式畿内型古墳の典型的出土品であることから、この時代の対馬の首長はヤマト王権と深く結びつき、その強い影響下にあったことを示している。

古墳時代は、ヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代であり、『日本書紀』には、対馬北端の和珥津(わにのつ、現在の上対馬町鰐浦)から出航した神功皇后率いる大軍が新羅を攻め、服属させたうえ、屯倉を設置したという記述がある。皇后が三韓征伐の帰途、旗八流を納めたとされるのが和多都美神社(現海神神社)であり、対馬はヤマト王権による朝鮮半島出兵の中継地としての役割を担っていた。

大化の改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府が置かれ、大宰府の管轄下に入った。推古天皇による遣隋使も、初期の遣唐使も、すべて航海は壱岐と対馬を航路の寄港地としている。

天智二年(663)の白村江の戦い以後、倭国は、唐・新羅の侵攻に備え、対馬には防人(さきもり)が置かれ、烽火(とぶひ)が8か所に設置された。防人はおもに東国から徴発され、『万葉集』には数多くの防人歌がのこっている。天智六年(667)には、浅茅湾南岸に金田城を築きて国境要塞とし、天武三年(674)には、厳原が正式な国府の地に定まった。

古代には、新羅から日本には、欽明天皇元年(540)から延長七年(929)までの間、新羅は日本に89回におよび入朝しており、日本から新羅へは欽明天皇三十二年(571)から元慶六年(882)まで45回にわたり使節を派遣しており、これらは、すべて対馬を経由している。しかしその間、新羅は四度にわたり入寇し、寛平六年(894)には、新羅の賊船大小百隻、約二千五百人が佐須浦(さすうら)に襲来したが撃退した。

寛仁3年(1019)、高麗人と女真族を主体とした賊船五十隻が対馬を襲撃した。殺害された者三百六十五人、拉致された者一千二百八十九人で、奴隷にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。

平氏が滅び、中世に入ると、鎌倉幕府は国ごとに守護を置き、対馬国守護職は少弐氏(武藤氏)にあたえられた。十二世紀には、のちの宗氏の始祖となる、もと大宰府の官人であった惟宗(これむね)氏が対馬に入部した。惟宗氏(宗氏)は、少弐氏の守護代として次第に対馬で勢力をのばし、武士化していった。

対馬には、かつて対馬国の在庁官人だった阿比留氏が勢力を保持していた。阿比留氏は、刀伊の入寇の際には刀伊の将龍羽を討ち果たすなどの功により、従五位下の官職を下賜されてもいた。しかし当時国交がなかった高麗と交易し、大宰府の命に従わず、反乱者として、宗重尚により征討され、宗氏が対馬の支配権を確立した。

鎌倉時代に、二度にわたり、元とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、大きな被害を受けた。文永十一年(1274)、元・高麗軍約4万人が、艦船900隻に分乗し、対馬に殺到した。この大軍に対し宗助国は、一族郎党80余騎を率い迎撃したが、圧倒的な兵力差により全滅した。

上陸した元・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。弘安四年(1281)には二度目の来寇があった。元・高麗軍は、約16万人で、軍船実に4400隻に分乗し押し寄せた。これにも日本は果敢に抵抗し、上陸した東路軍の郎将らを打ち取ったが、多勢に無勢で、結局対馬軍は壊滅した。

元寇終結後、元寇に対する防衛や報復のため倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地の1つとなった。正平二十一年(1366)、高麗王朝が倭寇の取締を宗氏に要請すると、日朝貿易を意図した宗経茂はこれに応え、高麗との通交が始まるが、元中六年(1389)、高麗軍は倭寇が激化しているとし、対馬を襲撃した。

さらには、応永二十六年(1419)には、李朝第三代の太宗は、倭寇討伐を大義名分として、兵船227隻・軍兵1万7千人で来襲し、対馬兵とのあいだで激しく戦った。朝鮮軍は、対馬の人びとの伏兵などによる反撃などにより損害が大きく、暴風雨も近づき巨済島へ全面撤退した。

しかし、太宗は宗氏に対し圧力をかけ続け、嘉吉三年(1443)、宗貞盛は、朝鮮の圧力に屈して嘉吉条約を結んだ。宗氏は、日本の御家人でありながら、朝鮮に臣従する形をとり、朝鮮の代官という立場になり、朝鮮は宗氏に通好証を与え、日朝貿易に関しては、宗氏が窓口と決められた。これにより、日朝貿易を望む日本の諸豪族に対して、宗氏は大きな権利を持つことになった。

太宗の死後、第四代の世宗は日本との善隣政策をとり、三度にわたって通信使を送り通交の制度を整備した。対馬から朝鮮への歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を朝鮮が支給することとした。日本から朝鮮へ渡航する者は宗氏の統制下に置かれ、朝鮮南部海域の漁業特権も宗氏にあたえられた。

対馬は、農耕地が少なく、土地による収入よりも交易に依存する度合いが大きかったので、宗氏の握る貿易権・漁業権は、みずからの家臣団編成などにおいて重要な役割をになった。宗氏は釜山などに貿易のための居留地の「倭館」を置き、その権益を拡大していった。

しかし、朝鮮王朝は次第に日朝貿易の抑制政策を取り始め、朝鮮在留日本人に対し締め付けを行い始め、これに反発した在留日本人は、永正七年(1510)、宗盛弘を大将とし兵乱を起こした。しかしこの乱は、朝鮮により鎮圧された。その結果、日朝貿易は衰え、それに代わり、中国人を主体とする後期倭寇が、東シナ海や黄海の広い海域で活動をはじめた。

これ以後、中国人を主体とする後期倭寇が東シナ海や黄海の広い海域で活動し日朝貿易は衰えた。また、時代は戦国時代に入っており、背後に朝鮮の圧力を受けながら、宗氏は壱岐に進出した松浦氏と対立し始めた。また、主筋の少弐氏は、永禄二年(1559)、大宰府を巡る騒乱の中で滅亡し、宗氏は少弐氏を擁して筑前進出を果たしたものの、毛利・大友・龍造寺氏らの力に抗しようはなかった。

天正十四年(1586)、豊臣秀吉の九州征伐に当たっては秀吉に属し、対馬の本領を安堵された。