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天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州平定に際して、宗氏は事前に豊臣政権への臣従を決め、本領安堵され、天正18年(1590)には、宗義智が従四位下侍従・対馬守に任ぜられた。

秀吉の朝鮮出兵を前にして、宗氏は秀吉から李氏朝鮮を服属させるようにとの命令を受け、小西行長らと共に交渉に尽力したが、当然、交渉は思うように進まなかった。そこで、宗義智と小西行長らは、朝鮮から、秀吉に対して全国統一の祝賀使節を出すことを承諾させ、これを服属使と称して秀吉に謁見させた。

秀吉は、この朝鮮使節に対して、明の征服事業の先導を命じた。しかし朝鮮は建国以来、明の冊封国であり、それを了承する可能性はなかった。宗義智は朝鮮に伝えるべき明征服の先導命令を、明への道を貸すようにと偽り要請したが、これも実現はしなかった。

秀吉の朝鮮出兵に際しては、清水山城や撃方山城が築かれ中継基地となった。宗義智は5千人を動員し、最先鋒部隊として、小西行長の一番隊に配属された。文禄元年(1592)、義智らは全ての日本軍の先陣となって渡海し、朝鮮軍や明軍と戦い、釜山、漢城(現韓国首都ソウル)、平壌(現北朝鮮首都)を次々と攻略した。義智は、戦闘だけでなく、行長とともに日本側の外交を担当する役割も担った。

義智は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わった。それでも西軍敗北後、日朝貿易、日明貿易を意図する徳川家康から特に許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担った。

宗氏は、江戸時代を通じて対馬府中藩の藩主を務め、城下町は対馬府中(厳原)につくられた。慶長14年(1609)には慶長条約が締結され、釜山に倭館が再建され、5百人から1千人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われた。

宗氏はそれまで、形式的に朝鮮に臣従する形をとり、日朝双方の外交僧や役人レベルで、現実的な、双方に都合の良い文書を交わしながら貿易を行ってきた。しかし、国家レベルの話では、そのような話は通用しにくく、徳川家康からの、朝鮮に対して通信使を派遣する要求に対しては、宗氏は、国書を偽造し、朝鮮通信使を実現させた。

しかし二代藩主宗義成のとき、この国書偽造は、重臣の直訴により問題になった。この問題は、寛永12年(1635)、三代将軍徳川家光によって裁可され、外交権は対馬藩から幕府に移され、幕府の統制が厳しくなったものの、それまでの日朝間の外交の功績が認められ大きな問題とはならなかった。

対馬藩は、それまでの実績から、日朝それぞれの中央権力から釜山の倭館において出貿易を許されていた。現在の釜山市は対馬の人びとによってつくられた草梁の町から発展したものである。寛文三年(1663)には、5基の船着き場が造成されるなど日朝貿易は続けられた。対馬藩は十万石の格付けだったが、藩収入は朝鮮との交易によるものが主だった。

17世紀後半は、日朝貿易と銀山の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、往時の宗氏の繁栄のようすは、菩提寺万松院や、海神神社の壮麗さが今日に伝えている。

江戸時代後期の万延二年(1861)には、ロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊し、ポサドニック号は芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留し、藩主宗義和に土地の貸与を求めた。これに対して幕府は、外国奉行の小栗忠順が派遣され、イギリスの干渉もあってロシア軍艦は退去した。

幕末期には、対馬藩は佐幕派が主導権を握り、これに対し、勤王派は抵抗運動を繰り広げ、多くの犠牲者を出した。藩主宗義達は、両派の主導者を殺害して、ようやく事件を終息させた。この一連のできごとで、対馬全体では200名以上が犠牲になった。

義達は、明治元年(1868)には新政府軍として戊辰戦争に参加し、明治二年(1869)には版籍奉還をおこなった。対馬は、厳原県、伊万里県、佐賀県に改められ、明治九年(1876)には長崎県の管轄にうつされた。

最後の藩主となった義達は、華族令の施行された明治十七年(1884)には伯爵を授けられ華族に列した。対馬の宗氏は一貫して日本の中央権力に服属してきたが、中世の一時期には、朝鮮王朝から官職を与えられ、形式的に臣従の形をとり、日朝間を結ぶ特殊な役割を果たしてきたことも事実である。

この時期、列強諸国はアジアに活動拠点を設けようと動いていた。対馬も沖縄同様、そのターゲットにされていた。明治政府は、ロシアやイギリスをはじめとする列強諸国の対馬接近に脅威を感じ、国境最前線である対馬島の要塞化を図った。対馬要塞の建設工事は、浅茅湾防備のため明治二十年(1887)より着工した。明治二十一年(1888)に4砲台が完成し、日清戦争を迎えた。

大日本帝国海軍は、明治二十九年(1896)、対馬周辺海域を防衛するため、浅茅湾に竹敷要港部を置いた。さらに明治三十六年までに5ヶ所の砲台を築き、3ヶ所に堡塁を築いた。しかし幸いなことに、日露戦争時に攻め込まれることもなく、砲台が火を吹くことはなかったが、それでも、対馬沖海戦では竹敷港や尾崎港からは連合艦隊の水雷艇が出撃している。また、上対馬の殿崎・茂木・琴などの住民は、海岸に漂着した多くのロシア兵の救命救助をおこない、宿や食糧を与えている。

対馬では、日中戦争や太平洋戦争中に、大規模な爆撃などもなく、国境の町でありながら比較的平穏だった。しかし、敗戦後の昭和二十年(1945)10月、大陸からの引揚者を乗せた旅客船「珠丸」が、旧日本軍が敷設した機雷に触れ沈没し、545名を超える人命が失われた。

しかし、対馬における不幸は、戦後に起こったと言える。東アジアから日本の力が消えると、朝鮮半島で、それまでは表には出ていなかった、資本主義と共産主義の対立が、表面化し始めた。昭和二十三年(1948)、アメリカの後ろ盾を得た李承晩が初代大統領に選ばれ、朝鮮半島南部を実効支配した大韓民国が建国された。

この韓国の独立に際しては、激しい左右両派の対立があり、済州島では左派島民が武装蜂起し、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣され戦闘が行われた。当局側は、事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の五人に一人にあたる六万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。この事件により、対馬では、惨殺された済州島民の漂流遺体が多数収容された。また対馬や九州には、済州島から逃れる者が多数生じ、これが在日朝鮮・韓国人の先祖の多くを占めるともされる。

また、その後の朝鮮戦争での、南北双方による非武装住民の虐殺から逃れるために、日本に密入国する者が多数あり、当時の日本は戦後の混乱期でもあり、無秩序に不法入国を許してしまい、現在に問題を残している。

李承晩は、建国当初から、韓国を戦勝国と主張し、連合国側の一部にあった日本列島分割統治案に乗じて、対馬、九州を韓国が統治することを強く主張した。しかし、連合国が、大韓民国臨時政府を承認してはおらず、また臨時政府が日本と交戦したこともなく、むしろ朝鮮人の多くは日本人として連合国側と戦ったのが現実であり、当然の事ながらこの要求はイギリスやアメリカによって即座に拒否された。

それでも昭和二十四年(1949)一月には、李承晩は対馬領有を一方的に宣言し、連合軍占領下で主権が制限されている日本に対馬返還を要求した。その理由は、「豊臣秀吉の時代に日本が不法に奪取したもの」というものだった。もちろんそれらが国際社会に受け入れられるものではなかったが、その後、韓国側が一方的に李承晩ラインを設定することの伏線となった。

第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域は、占領軍による日本統治のために引かれたマッカーサーラインにより大きく制限された。しかしそれは暫定的な物で、サンフランシスコ講和条約により日本主権が回復されれば、廃止が予定されていた。

昭和二十六年(1951)九月、サンフランシスコ講和条約が締結されたが、韓国は日本の朝鮮半島内の資産の移管と、竹島、波浪島を韓国領とすること、並びにマッカーサー・ラインの継続を要求していたが、日本資産の移管についてのみ認められ、それ以外は拒否された。李承晩はそれを不服として、サンフランシスコ講和条約に調印せず、講和条約の発効前の昭和二十七年(1952)一月、突如としてマッカーサー・ラインに代わるものとして「李承晩ライン」の宣言を行った。

対馬は、西日本屈指の漁場をかかえ、近海のサバ漁やイカ漁などのため、遠方からも多くの漁船がおとずれ、各漁港や厳原の町も賑わった。しかし李承晩ラインにより、竹島は不法に占拠され、李承晩ラインは、韓国が海洋資源の独占を目的としたもので、この海域内での漁業は、韓国籍以外の漁船は行えないものとし、これに違反したとされた漁船は韓国側によって臨検、拿捕、接収、銃撃を受けるなどした。対馬の漁船はもちろん、九州などの漁船の多くが拿捕され、また拷問を受け、銃撃を受けるなどして死亡した日本人も多い。この李承晩ラインは、(1965)の日韓請求権協定締結の際に結ばれた日韓漁業協定により、協定に矛盾する李承晩ラインは自動的に無効廃止となった。

近年は、李承晩ラインはなくなったものの、北朝鮮、韓国、中国の漁船による、威嚇的な不法操業・乱獲が増加し、対馬はもちろん、日本海での日本の漁業・水産業は衰退している。

また対馬では、日本のインバウンド政策もあり、その地理的な近さから、韓国からの観光客が多いが、そのマナーは悪く、逆に日本人観光客からは敬遠されているようだ。さらに、韓国の企業や個人による土地の買い占めや、反日政策による日韓関係の悪化などもあり、問題は多いようだ。