韓国では、「親日派」という言葉は、悪い意味以外の何物でもなく、場合によっては社会的に抹殺されかねないレッテル張りに使われている。最近は「土着倭寇」なる造語も使われているようだ。
この言葉は、1910年の大韓毎日新報で「土倭天地」という文があり、「土倭」を「顔は韓国人だが、腸は倭人である鬼のような者、国を害し民を病に至らせる人種」だと規定しているようだ。
つまり、日本のことを褒めたり日韓関係が良くなってほしいと言う者は、鬼のような人物ということらしい。ここでは、その語源にあたる「倭寇」について考察していく。
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元は、日本に国交を求める数度の交渉の後、これに応じない日本に対し、1274年10月、約4万の兵を起こした。この当時、朝鮮半島の高麗は、元の属国になっており、300艘の軍船を建造し、約8千の兵を出した。
元・高麗軍は手始めに対馬を襲った。対馬守護代宗資国はこれを迎え撃ったが多勢に無勢、宗資国以下の対馬勢の多くは討ち死にした。上陸した元軍と高麗軍は、島民の多くを虐殺した。
この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を次のように伝えている。
「元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破り、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた」
元軍と高麗軍は、その後、守護代、平景隆が守る壱岐や、松浦党が守る平戸島、鷹島、能古島にも押し寄せ、各島々も対馬と同様の被害を受けた。
その後の戦いは、読者も広く知るように、慣れない外敵との戦いに苦戦しながらも、日本の武士団は善戦し、その間、元軍は大風により多数の軍船が破船し多くの犠牲を出して引き上げた。
この元寇において、軍船・軍隊・兵糧などを支給した高麗は、国力を極度に悪化させ疲弊した。日本征討に加わった兵士たちは、戦闘による負傷と帰還中の暴風雨により多くの負傷者・溺死者を出すなどしたために、耕作する者は僅かに老人と子供のみであること、さらに日照りと長雨が続いて稲は実らず民は木の実や草葉を採って飢えを凌ぐほどだったという。
住民の多くが虐殺された対馬や壱岐の状況はさらにひどいものだった。また元寇を戦った九州や西国の御家人たちも急激に窮乏化し、浪人武士が多く現れ、それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれた。これらの船団は、元寇の報復の意味もあり、敗戦で海防力が弱体化していた元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に進出していった。
当初は侵略者の元や高麗に対する報復が目的だったろう。しかし、その報復はもちろん鎌倉幕府が関与しているものではなく、私的な報復だった。そのため経済的には自給自足で、次第に商船集団化していき、倭寇と呼ばれるようになった。
元寇の失敗により元とともに高麗もまた国力を疲弊させていった。14世紀に大陸で紅巾の乱が起こり元が衰え始め、1356年頃から10万人にも及ぶ紅巾賊が高麗にも侵入、一時、都・開京が紅巾賊の手に陥ちたりもした。
また、この当時は倭寇の活動も活発で、朝鮮北部沿岸や、南部では内陸深くまで侵入するようになった。これに対して高麗も反撃し、1389年2月には、軍船100艘による対馬侵攻が行われた。「高麗史」によれば、日本船300艘と沿岸の建物を焼き尽くし、捕らえられていた者100余人を救出したとされる。
当時、日本国内は南北朝時代に入っており、元寇時に大きな被害を受けた松浦党や菊池氏は南朝方として活躍しており、倭寇は南朝方として北朝との戦いのための物資獲得をも目的としていたともされる。また紅巾賊の動きとも連動した、半島の民衆の不満もあり、倭寇に多くの朝鮮人が加わるようになっていったようだ。
この南北朝時代が北朝方が実質的勝利を得て、室町幕府の足利義満が、倭寇を取り締まり勘合貿易を始めるに至り、倭人による倭寇は拠点を失い衰退していった。これ以降の倭寇は「偽倭」と呼ばれる、朝鮮人によるものだったと思われ、1446年の世宗実録には「倭人は1・2割に過ぎず、朝鮮の民が、仮に倭服を着して党を成し乱を作す」とある。
15世紀に入ってからの「倭寇」の構成員の多くは中国人であり、その活動地域は、朝鮮半島沿岸部はもちろん、広く中国沿岸、台湾、琉球など、東シナ海から南シナ海にまで及んだ。明は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国人や朝鮮人の商人たちは、倭人の格好を真似て沿岸部の有力商人と結託し、さらにはアジアに進出してきたポルトガルやイスパニアなどのヨーロッパ人や日本の博多商人とも密貿易を行っていた。
倭寇は結局は土地を持たない権力からのはぐれ者だった。当時の国境がない海を活躍の場とした、いわば多重国籍者と言ってもいい存在だったろう。権力の手が及びにくい奄美諸島や台湾、済州島や海南島などを根拠地として活動した「海の民=海賊」だった。
しかしそれも、日本では戦国時代が終わり天下が統一され、豊臣秀吉の海賊停止令により、日本の倭寇は日本国内の拠点を失い衰退した。東アジアの海上世界では、明を奉じて清に抵抗した鄭成功の勢力に組み込まれ、半商半海賊的な存在として清に抵抗した。また、倭寇に多く見られた広東、福建、浙江、台湾などの出身者は、日本や東南アジアに多数渡り、華僑のコミュニティを形成し、現在も政治や経済において影響力を及ぼしている。
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「倭寇」のような、いわば傍系の歴史に関してだけでも、ざっとこれだけの流れがあり、すべての歴史がそうであるように、その必然性は、あるときは被害者であり、またある時は加害者として歴史の表にあらわれる。現在の韓国に強くみられる、被害者としてだけの歴史などはありえない。
韓国で「親日派」や「土着倭寇」を使う韓国民は、それだけで、正当な歴史に対する加害者になっている。歴史は被害者が次の時代の加害者となるように次々と次世代への必然性を生み、複雑に絡み合いながら次の時代を生み出していく。
韓国での、特に李朝時代の「倭寇」は、世宗実録にもあるように、朝鮮人が倭服をきた「偽倭」である可能性が強い。さらに可能性としては、仏教迫害で奴婢に落とされた僧侶らが、「偽倭」として、朝鮮内の仏像や経典を持ち去り売りさばいたことすら考えられる状況である。
そういう中で、親日的な韓国民に対して「土着倭寇」なる言葉を罵倒語として使う韓国民は、自ずからが「正しい歴史認識」を持たない「歴史への加害者」ということになる。