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宮城県仙台市北西部の船形山麓の山深い大倉の地に、定義如来西方寺があり、「定義さん」と呼ばれ、古くから民間の信仰を広く集めている。この地には平家の落人伝説があり、次のように伝えられている。

定義山は、平重盛の重臣の平貞能(さだよし)が開いたと伝えられる。 平重盛は戦が絶えないのを憂い、中国の育王山欣山寺に黄金を寄進し平和祈願をした。これに対し欣山寺伝来の阿弥陀如来を描いた軸が送られた。重盛は歓喜し天皇、国家の安泰、平氏一族、我が身の後生を日夜祈った。

治承2年(1178)、平重盛は病にかかり死期を悟り、肥後守平貞能にこの軸を授け、長く後世に伝え、天皇、平氏一族、世の人々の後世と、自らの死後の菩提を弔うように命じた。

平家は壇ノ浦の戦いに敗れ、幼い安徳天皇は没し、平家一族は離散した。貞能は重盛の遺言にしたがい、宝軸をまもり、しばらくはこの地の近くの新川の地に隠れ住み、その後この地に隠れすんだ。

貞能はなおも世をはばかり、名を「定義」と改めた。この地を「定義」(じょうぎ)と呼ぶのはこのことに由来するという。貞能は、建久9年(1198)7月、60歳でこの地で没した。従臣達はその遺言通りに、墓上に小堂を建て阿弥陀如来の宝軸を安置したと云う。

平貞能は、平清盛が「専一腹心の者」というほど清盛の信頼が厚く、清盛が太政大臣を辞任して嫡男の平重盛が平氏の家督を継ぐと、貞能は引き続き重臣として重盛に仕えた。しかしその重盛は治承3年(1179)清盛に先立ち享年42歳で死没した。

治承4年(1180)、平氏は富士川の戦いで大敗し、戦乱は全国に拡大し、翌治承5年(1181)には清盛が死去した。貞能は、九州の反乱を苦労の末に鎮圧し、寿永2年(1183)帰還したが、木曽義仲が京都に侵攻してきた。貞能は都での決戦を主張したが、清盛の跡を継いでいた宗盛は都落ちを決定し、一門はことごとく西国へ落ちていった。

貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こして遺骨を高野山へ送り、辺りの土を加茂川へ流して京を退去したという。貞能は出家して九州に留まり平氏本隊から離脱した。

平氏滅亡後の元暦2年(1185)、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼り鎌倉方に投降し、貞能の身柄は朝綱に預けられた。

その後の消息は不明であるが、那須塩原市の妙雲寺や、ここで取り上げている定義如来などに、伝承として残っている。

宮城県仙台市の西部の旧宮城町や旧秋保町には、平家の落人伝説だけではなく、源義経伝説や静御前伝説が残っており、さらには、この地域一帯を中世に支配していた秋保氏の出自に関わる伝承と絡み合っている。