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天文10年(1541)、小野寺氏は角館城攻略に本腰をいれた。この時点では小野寺氏の力は強大で、戸沢方の諸将は動揺したが、それでも結束は固く、小野寺氏の攻勢を回避できた。その後、小野寺氏に内紛が生じ、戸沢氏に対する小野寺氏の脅威は去った。

しかし、天文14年(1545)、一族の重鎮の淀川城主忠盛が死去したことで、安東氏は淀川城を攻撃し城は安東氏の手に落ちた。翌々年、態勢を整えた道盛は淀川城奪還を目ざして出陣、安東勢と激戦を展開し、淀川城を奪還し、さらに安東氏の手に落ちていた荒川城も攻略し、角館に帰還した。その後、大曲土屋館の富樫氏を降して臣従させるなど、元亀元年(1570)には、仙北郡の大半を掌中に収めることに成功した。

永禄9年(1566)、道盛と本堂氏の娘の室の間に、男子が生まれ、これがその後、鬼九郎の名をほしいままにした猛将戸沢盛安である。天正6年(1578)、病弱な兄の盛重にかわって、13歳で家督を相続し、角館城主となった。

この時期、中央では織田信長が天下統一を目前にする状態だった。この情勢は奥州にももたらされ、安東愛季は天正3年(1575)、織田信長に鷹を贈り誼を通じていた。盛安も重臣とはかり信長へ接近することを決意し、天正7年(1579)、良鷹一居、駿馬二疋を安土城にいる信長に献上した。

天正14年(1586)小野寺義道は、最上義光の雄勝郡進出を抑えるために、みずから大軍を率いて国境の有屋峠に向った。居城の横手城には大築地織部が留守役として残るのみであった。盛安はこの機会を逃さず、みずからが三千余騎を率いて布晒に布陣した。これをみた、大築地織部もただちに阿気野に出陣した。

両者激突となったが、小野寺勢はさすがに精強で、戸沢氏の先鋒楢岡氏は小野寺軍に崩され敗走した。これを見た盛安は、五百人の手勢を従え敵陣に突き進んだ。これに白岩・本堂・堀田・門屋らが続き、大激戦となった。勢いに乗じて戸沢勢は大築地氏の居城沼城を攻撃しようとしたが、そこへ小野寺方に援軍が到着したことがわかり兵を退いた。この合戦における盛安の奮戦は目覚ましく、誰いうともなく鬼九郎と称されるようになった。

翌天正15年(1587)、盛安は祖父秀盛の時代から抗争を繰り返してきた安東氏と仙北唐松野で戦った。安東氏は檜山の安東愛季が湊安東氏を併呑したことで、その勢力は一躍拡大していた。

安東氏は、戸沢氏ら仙北の諸大名を抑えるために、雄物川の川筋を利用した交易を封じる動きがあり、安東氏と戸沢氏の争いは、いままでの単なる境界をめぐる争いから、雄物川舟運路と東西運路を結ぶ刈和野をめぐる争いとなった。刈和野は角館地方と由利海岸を結ぶ塩の道の中継点で、戸沢氏にとっては経済上・戦略上の要所であり絶対に負けられない戦いとなった。

初戦は安東方に虚をつかれて淀川城が安東方の手に落ちた。急報を得て盛安はただちに軍を発した。しかし、すでに安東勢は唐松野に陣を布いており、盛安は淀川を隔てて陣を布いた。安東勢三千に対し戸沢勢は千二百人で、合戦は三日間にわたって続き、秋田勢三百、戸沢勢百人の戦死者が出た。

戦いは膠着状態になったが、安東勢が奇襲に出たことでふたたび激戦となった。戦いは戸沢勢が必死の力を揮い、ついに安東愛季は退去した。盛安はこれを追撃し、安東方の剛将吉成右衛門を組み伏せその首級を挙げた。この戦いは「唐松野の合戦」と呼ばれ、戸沢氏の実力を出羽諸将に認識させた。

この唐松野の合戦の最中に安東愛季は陣没していたが、それを安東勢はひた隠しにして戸沢勢と戦っていたのだった。愛季が没したあとの安東氏は、12歳の実季が家督を継いだ。この情勢に、豊島城主の安東道季が謀反を起こし、周辺の諸領主を誘った。戸沢盛安は道季に加担し、檜山城を包囲し、50日間にわたって猛攻を繰り返したが、ついに落とすことはできなかった。

結局、乱は実季方の勝利に終わり、安東氏を打倒して大領国を形成する夢はまったく打ち砕かれた。

この「唐松野の戦い」の時期は、豊臣秀吉が太政大臣に就任し、天下統一の総仕上げを行おうとしている時期だった。盛安は、このような天下の動きを十分に把握していたようで、秀吉が小田原征伐のために、全国の諸大名に出陣を命令した際には、盛安は、商人の姿に変装してわずか9人の家来を率い、ただちに角館を出発した。盛安は猛烈なスピードで旅を続け、東海道を東下する秀吉の陣所にたどりつき秀吉に謁見し、秀吉はこの盛安の参陣に満足し、腰刀備前兼光を盛安に授けた。

盛安は角館から将兵を呼び寄せ小田原攻めに参加した。しかし、不幸にして25歳の若さで陣中で病死してしまった。盛安は、13歳で家督を継いでから後、隠忍自重し国力を蓄え、好機と見れば果敢に戦い、大名として存続するためにはそれなりの大胆さが必要であることも十分に知り抜いていた、まさに、乱世の傑物といえる。

盛安の没後は、15歳の弟の光盛が継いだが、文禄の役に出陣の途中で疱瘡のため死亡した。その跡は盛安の子の政盛が8歳で継ぎ、重臣の補佐をえて領国経営に専念した。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦には徳川方に属したが、東北の関ヶ原とよばれる上杉、最上の戦いには、安東氏の動向を見定める必要から、積極的に参加はできなかったようだ。関ヶ原合戦の後、常陸の佐竹氏が秋田に転封となり、戸沢氏は関ヶ原時の消極的な対応を咎められ、常陸松岡へ4万石で減移封された。安東氏は、常陸国宍戸に5万石で転封となり、西軍に加担した小野寺氏は改易され、義道兄弟は石州津和野に流された。

その後、政盛は徳川家譜代の重臣鳥居忠政から妹を正室に迎えるなどして結びつきを深めた。元和8年(1622)、出羽山形藩の最上家が改易されると、最上家の旧領は山形藩主となった鳥居忠政とその縁戚に与えられ、政盛も最上郡と村山郡に2万石を加増されて新庄に移封され、新庄藩6万8千石の藩主となり、故郷と同じ出羽国への復帰を果たし明治に至った。