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盛岡市の南外れの住宅地の中に、人知れず立っている石塔は、かつて南部利直の有能な幕閣だった、北信景(きたのぶかげ)の墓と伝えられるものだ。

北信景は、南部氏重臣桜庭光康の子で、桜庭直綱の実弟であり、通称は十左衛門と称した。南部氏の宿老の北信愛の養子となり、南部利直に仕えた。白根金山を発見し金山奉行として盛岡藩初期の財政に大きく貢献した。

九戸の乱が収拾し、奥州仕置の結果、和賀、稗貫の旧領は南部領となり、また阿曽沼氏が支配していた遠野も南部領となり、阿曽沼氏は南部氏に属するものとされた。しかしその南に接する伊達は、まだ治世が定まらぬ、和賀、稗貫、そして遠野を虎視眈々と狙っていた。阿曽沼の当主の広長は、伊達藩家臣の娘を妻とし、伊達藩に近い立場におり、そのため南部利直は阿曽沼に対し、伊達に通じているのではとの疑いを持っていた。

そのような折、関ヶ原の戦いが勃発し、南部は山形に最上救援のために出陣することになった。この期を狙い、桜庭直綱と北信景は、南部利直に阿曽沼広長追い落としを献策したと思われる。

慶長五年(1600)、南部利直は山形に出陣した。阿曽沼広長も南部の旗下として出陣した。南部の山形在陣中に、和賀、稗貫で一揆が起き花巻城が攻められた。南部利直は阿曽沼広長を山形に残し花巻に入り、鱒沢、平清水らの阿曽沼家臣は、阿曽沼広長が遠野の横田城に戻る前に城を押さえ、広長はそれに気付き伊達領に出奔し、北信景らの阿曽沼氏追い落としの企ては成功し、信景は、南部利直の若き幕閣として頭角を現した。

信景は、平清水氏の姫を室とし、花巻城を拠点として、和賀、稗貫、遠野郷を、平清水氏らとともに治め、また白根金山を発見し、それを経営し、南部藩に多大な貢献をし、その将来は洋々としたものに思えた。しかし、それは春の夜の夢のごとく暗転する。

信景の十才の嫡男の十蔵は、利直の小姓としてそばに仕えていた。ある時利直は、一時の戯れで、十蔵に罪人を斬るように命じた。まだ元服前の十蔵は不安に思っただろうが、上意では拒むことも出来ず、その罪人を討つが、自身も大怪我を負い、この傷がもとで亡くなった。信景は嘆き悲しみ、屋敷に引き籠り出仕しなくなってしまった。

これに対し利直は、信景に閉門蟄居を命じたが信景はこれに従わず、出奔して大阪城に走った。

大阪城に入った信景は、金色に輝く甲冑を身につけ、「光武者」と呼ばれ大阪の陣で活躍した。また、「南部十左衛門」の銘の入った矢が徳川秀忠の目に留まった。

信景は、金山奉行として京・伏見・大坂などに莫大な金銀を管理していたこともあり、大坂入城に際し、堺で鉄砲数百挺を造らせ、大坂城に持ち込んだという話もあり、南部氏は、大阪方と二股をかけていたと疑われ、利直はその面目を大いに失ったとされる。

信景は、大阪の陣後伊勢で捕らえられ、南部家に引き渡され盛岡で処刑された。その処刑は残虐なものだったと云い、毎日手足の指を一本ずつ切られたが、信景は躊躇する処刑人を逆にはげまし、最後は南部利直が自ずから弓で処刑したと伝えられる。

このようなことから、南部利直は、畏怖の念をもって「十和田の大蛇の化身」と呼ばれ、また、九戸政実の祟りと噂する者もあったという。