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阿弖流為についてまとめている中で、阿弖流為は本当に英雄だったのかという思いが次第に強くなってきている。そう思い始めたきっかけは、英雄伝説が強く伝えられる岩手県の胆沢地方においても、その英雄の墓や、それに関わる伝説がないということだ。誤解のないように言っておくが、私も東北人として、巣伏の戦いにおける蝦夷軍や阿弖流為の活躍には拍手を送りたいと思っている一人である。

巣伏の戦いにおける阿弖流為は、間違いなく「英雄」であるが、現場指揮官としての戦術的な「英雄」であり、戦略性は乏しく、情緒的で刹那的に思える。阿弖流為が処刑されたのちも、各地で散発的な抵抗があったようで、それらは、石巻の牧山伝説や、花巻の人首丸伝説に見られる。しかし、阿弖流為が戦い、その故地とする胆沢や周辺地域で、阿弖利爲と母禮が殺されたことに報復する、組織的な弔い合戦などの反乱が発生した形跡は一切ない。さらに、処刑された大阪の地に、「阿弖流為の墓」があるにも関わらず、胆沢や周辺地域に阿弖流為の墓や、それに関わる伝承があるということを私は知らない。

延暦11年(792)、斯波村の蝦夷が陸奥国府に使者を送り、日頃から王化に帰したいと考えているものの、伊治村の蝦夷がそれを妨害して、王化を叶えられないと申し出ている。また、同じ年、蝦夷の爾散南公阿波蘇が王化を慕って入朝を望んでいるとあり、入朝を許し路次の国では軍士300騎をもって送迎、国家の威勢を示したと記載されている。

これらから、少なくとも岩手県中部近辺までは、蝦夷内部でも、大和朝廷との同化を望む声が強かったことが伺われる。もしかすると、阿弖流為の反大和の動きは、一部の蝦夷による動きであり、胆沢やその周辺地域の大多数の蝦夷集団は、親大和であり、それらの蝦夷にとっては、阿弖流為らの動きは迷惑なものだったのかもしれない。

奥州市には「跡呂井」という地名があり、恐らくはこの地名からだろう、地元の方々は、この地が阿弖流為の生誕地だと信じているようだ。この地域は調査もされたようだが、その地名以外には、根拠となるようなものは今のところ出てきてはいないようだ。

実は「阿弖流為の里」と伝えられている地が、岩手県八幡平市にもあり、「長者屋敷」として、次のように伝えられている。

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昔、この長者屋敷の主は、周辺の村々の人々から「西の長者」と呼ばれて尊敬されていた。この長者は、当時「東の長者」と言われ、今の西根の長者山の麓に屋敷を構えていた「酒樽長者」の娘を嫁に迎えることになった。

祝言の日、東の長者は、馬88頭にお供の者300人という豪勢な行列を組みこの長者屋敷に向ってやってきた。当時、この長者屋敷は、砦でもある堅固な館で、前を流れる長川には橋が架けられていなかった。村人たちは、嫁入りの行列がどのように屋敷に入るのか、気をもみながら見守っていた。

すると、突然大木戸が開き、中から豆俵を担いだ大勢の男たちが出てきて、長川に見る見るうちに豆俵を積み重ねて橋を架けてしまった。嫁入りの行列は豆俵の橋を渡り、無事大木戸の中へ入っていった。村人たちはこれを見て、拍手喝采を送り祝福した。それ以来、長川のことを「豆渡川」と呼び、長者のこともまた「豆渡長者」と呼ぶようになったと云う。

この長者屋敷内には、聖なる神の水が湧く七つの湧き口と、一つのお釜と呼ばれる岩壷がありそれぞれに祠が祀られ、遠い昔からこの地に恵みをもたらし崇敬されていた。長者夫妻は、毎朝欠かさず夜明けと共に起きて、これら八つの祠に詣で、大自然の神々の恵に感謝し、マトーコタンの豊作を祈り、一族の無病息災と繁栄を祈っていた。

しかし、この頃、蝦夷の国の南方では、大和朝廷の軍勢が進出し、蝦夷との争いが頻繁に起こるようになってきた。この地の長者屋敷の一族も、そのまま安穏と暮らしてはいられなくなってきた。この地の豆渡長者は、その武勇と人柄がかわれ、蝦夷の棟梁に迎えられることになった。長者は、この地をまだうら若い息子の登喜盛と一族の人達に任せ、平泉方面の戦いの場に出陣して行った。

それからの長者は、朝廷軍から恐れられ、蝦夷の梟帥「悪路王」「アテルイ」などと呼ばれ大変恐れられたが、遂には坂上田村麻呂と戦い捕らえられ都に引き立てられ、田村麻呂の助命の願いも空しく首を刎ねられた。

その後、この地に残された蝦夷一族の登喜盛らは、朝廷軍に対して頑強に抵抗したようで、次のような伝説が伝えられている。

高丸悪路の一子登喜盛は、この地を居城として立て篭もり、時折館を出ては各地を略奪し、財宝をこの地に蓄えていた。あるとき登喜盛らは、盛岡の大宮に住む神子田多賀康の娘の岩花を、家宝のお釜とともに拉致しこの地に幽閉した。

神子田多賀康は、娘岩花の救出を坂上田村麻呂に依頼し、田村麻呂は早速討伐に向かい、登喜盛一族を討ち岩花を救出した。田村麻呂は、このとき天皇から下賜された節刀をこの地の清水で洗い清め、さやに納めたとされ、その清水は「太刀清水」とも呼ばれるようになった。
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この八幡平市の長者屋敷は、秋田県鹿角市の大湯環状列石を西端とし、この八幡平市に到る「だんぶり長者」伝説が広がっている地域だ。そしてまた、継体天皇の后だったとされる吉祥姫の伝説を伝えており、かなり早い時期から大和朝廷に同化していたようだ。

恐らく阿弖流為の時期には、現在の鹿角市から盛岡市を結ぶライン以南は、大和勢力との同化が進んでいただろう。もちろんそれが、大和勢力の強制や圧迫によって同化されていると考えることもできる。しかし多くの蝦夷勢力はそれほど愚かではなかったはずだ。むしろ国家としての同一感を求め、積極的に大和勢力に同化していったとも考えられる。

もちろん、国家レベルとは違ったところで、その地域によっては、大和勢力に属する者らによる、理不尽な強制や圧迫、差別があったことは事実だろう。そのような事が、呰麻呂の乱を引き起こし、阿弖流為らの反乱を引き起こしたのだろう。

親大和の蝦夷にとって、この伝説にもあるように、登喜盛一族のような反大和の蝦夷のレジスタンス運動は、親大和の蝦夷や、移住してきた新住民にとっては、略奪し姫を拉致するような「鬼」でしかなかったのだろう。

しかしそれも、弘仁5年(815)、嵯峨天皇が「既に皇化に馴れて、深く以て恥となす。宜しく早く告知して、夷俘と号すること莫かるべし。今より以後、官位に随ひて称せ。若し官位無ければ、即ち姓名を称せ」と蝦夷に対して夷俘と蔑称することを禁止する勅を発したことで、征夷の時代は終息した。

それとともに、各地でささやかな抵抗運動を行った名も知れぬ蝦夷たちは、大武丸、大多鬼丸、人首丸、魔鬼女などと名付けられ、鬼伝説となった。哀れなのはこれらの鬼たちであり、今後、この鬼たちの生きざまも拾い上げていこうと思っている。

阿弖流為は、すでに南東北は親大和勢力が主流となっている中で、反大和のレジスタンスを行った人物で、巣伏の戦いは、英雄的なものではあったものの、親大和が主流になっていた胆沢地方では厄介者でしかなかったのかもしれない。

現在の「阿弖流為=英雄」的な見方は、小説の「火怨」などからのアテルイブームに起因するもので、アテルイがあたかも東北人の中央に対する自立や抵抗の象徴のように扱われるようなことは、正しい歴史認識の上で、厳に慎まなければならないだろう。

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