宝亀5年(774)の蝦夷による桃生城の襲撃と、宝亀11年(780)の、伊治公呰麻呂と蝦夷軍による多賀城襲撃により、これ以降、多賀城以北各地で蝦夷による反乱が頻発するようになった。しかし、「蝦夷」とはもちろん国家ではなく、部族単位で集落を形成し、部族同士が共有するアイデンテティーも希薄だった。
しかし、呰麻呂の乱は、多賀城周辺のみならず、陸奥国そして出羽国の広汎な範囲に影響を及ぼした。出羽国でも宝亀11年(780)に、蜂起した蝦夷が雄勝郡・平鹿郡を襲撃・略奪したことが記録されている。これにより、陸奥国に比べ常備兵力が少ない出羽国は、雄勝城の防衛のために兵力を割く必要が生じ、秋田城の維持が困難になり、機能が停止してしまった。このような混乱の中、光仁天皇は桓武天皇に譲位した。
桓武天皇は、延暦7年(788)7月に紀古佐美を征東大将軍に任じ、紀古佐美は12月に蝦夷の征討に赴いた。当時、陸奥、出羽での軍事行動は、俘囚軍(蝦夷軍)が担うことが多く、また兵糧も現地で調達することが多かった。しかし、俘囚軍は蝦夷側についており、現地での協力は得にくく、兵や兵糧の調達は思うに任せなかった。
それでも、延暦8年(789)4月8日、多賀城に会集していた朝廷軍は「河道」「陸道」「海道」といったいくつかの道に分かれて進軍を開始した。4月22日には「陸道」を進軍していた2~3万人ほどの軍勢が衣川を渡河し、その北岸に3ヵ所の軍営(衣川営)を置いた。
古佐美は、胆沢の地の北上川東岸に集結した蝦夷軍を征し、その後、一挙に盆地奥部まで攻める計画をしていたようだ。しかし衣川北岸に軍営を築き、朝廷軍はその場で逗留したまま動く気配がなかった。恐らくは、アテルイが指揮する胆沢の地の蝦夷軍の背後に、どれだけの勢力が存在するか、掴めてはいなかったのではと考える。
古佐美は、30日ほど経過しても動かず、しびれを切らした桓武天皇は、直ちに出撃すべきことを強く促した。やむを得ず古佐美は攻撃を命じた。
朝廷軍は、前軍・中軍・後軍の3軍が連携しながら北上川を渡河し、胆沢の蝦夷軍を攻めるというものであったようだ。おそらく「胆沢の賊、惣て河東に集る」という情報を得ていたことから渡河作戦を採用したと思われる。衣川営を出発した朝廷軍は、北上川の両岸を2手に別れて北進を開始した。
前・中・後軍より各2000人ずつ選抜された計6000人の軍兵が、衣川営を出発後、中・後軍4000は北上川本流を渡河して東岸に沿って北進、阿弖流爲の居館付近で蝦夷軍300人程と交戦した。蝦夷軍は北へと退却、朝廷軍はこれを追いつつ途上の村々を焼き払いながら北上し、前軍との合流地点の巣伏を目指した。
一方、前軍の軍兵2000は、衣川営を出発後、北上川本流の西岸に沿って北進、巣伏付近から渡河して合流地点を目指そうとしたが、前方で待ち構えていた蝦夷軍に阻まれ、北上川を渡河できずにいた。
また、中・後軍の前方に蝦夷軍800人程が出現して戦闘となった。蝦夷軍の凄まじい勢いに朝廷軍は後方へと押し戻され、さらに東の山上に潜んでいた蝦夷軍400人程が朝廷軍の横・後方から急襲したため、朝廷軍の退路は断たれた。中・後軍は川と山に挟まれたきわめて狭い場所に追い詰められ、前後から敵を受けた朝廷軍は蝦夷軍に翻弄されたことで総崩れを起こした。
朝廷軍の中・後軍は、前軍との合流点の渡河地点に逃げたのかもしれない、戦闘による死者は25人だったが、1036人の溺死者を出した。
蝦夷軍の人的被害は不明であるが、朝廷軍は「十四村、宅八百許烟」と焼き討ちをしており、3000人から4000人の住居が失われたことになり、当時の蝦夷社会の中での被害は甚大と言える。
朝廷軍の征東大使紀古佐美は、この敗北を受けて、征夷の中止を決定し、朝廷の許可を得ずに征東軍を解散してしまった。
その後も蝦夷征討は継続されたようで、延暦13年(794)3月6日には、大伴弟麻呂を征夷大使に、坂上田村麻呂を征東副大使として征討へ出発。3月21日には征夷が報告されている。また、10月下旬には、「斬首457級、捕虜150人、獲馬85疋、焼落75処」と報告されている。
延暦15(796)3月、坂上田村麻呂は、陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、11月には鎮守将軍も兼ねることになった。延暦16年(797)11月には、桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられ、これで東北地方全般の行政を指揮する官職を全て合わせ持った。
延暦20年(801)3月31日、田村麻呂は、4万の軍勢で平安京より出征。11月6日には一旦征討が終了し、12月7日に凱旋帰京し、桓武天皇より「陸奥の国の蝦夷等、代を歴時を渉りて辺境を侵実だし、百姓を殺略す。是を以て従四位坂上田村麿大宿禰等を使はして、伐ち平げ掃き治めしむるに云々」とし、従三位を叙位され、近衛中将に任命された。
翌延暦21年(802)2月14日、田村麻呂は胆沢城を造営するために陸奥国へ派遣された。この胆沢城周辺には、「諸国等10ヵ国の浪人4000人」を移住させることになっていた。
この胆沢城の造営にあたっては、田村麻呂は阿弖流為ら蝦夷勢力と接触し、帰順を促し、蝦夷の慰撫に努めたのではないかと推測する。
この胆沢城造営中の同年5月19日、大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が、蝦夷500余人を率いて降伏してきた。阿弖利爲らの根拠地はすでに征服されており、北方の蝦夷の族長もすでに服属していたため、進退きわまっての降伏だったと考えられる。
同年8月11日には阿弖利爲と母禮は、田村麻呂が付き添い平安京に向かった。田村麻呂は、阿弖利爲と母禮を故郷に返し、彼らに現地を治めさせるのが得策であると主張した。しかし、公卿らは、「野蛮で獣の心をもち、約束しても覆してしまう。朝廷の威厳によってようやく捕えた梟帥を、田村麻呂らの主張通り陸奥国の奥地に放ち帰すというのは、いわゆる虎を養って患いを後に残すようなものである」と反対したという。結局、阿弖利爲と母禮は河内国椙山で斬られた。
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