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南東北への大和朝廷の進出は古く、宮城県石巻市の日高見神社に伝えられる伝承では、景行天皇40年(110)、日本武尊が、東夷征伐のおり上総国より海路陸奥に入ったとされる。日高見国に至りこの地の賊を平定し、日高見神社の地に斎場を設け、日高見川(北上川)の川神を祀ったと伝えられる。

それ以降も、上毛野氏による蝦夷征討が断続的に行われたようだが、大和勢力による支配は緩やかで、概ね平和に推移したと思われる。

7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されているが、大化年間(645~650)ころから蝦夷開拓が図られ、大化3年(647)の越国の渟足柵設置を皮切りに、現在の新潟県・宮城県北部に城柵が次々と建設され、白雉5年(654)には陸奥国が設置された。神亀元年(724)には、国府として多賀城が設置された。

多賀城は、標高52mから54mの低い丘陵上に立地し、低湿地をまたぐようなかたちで築かれている。規模は南辺約870m、北辺約780m、西辺約660m、東辺約1,050mで、中世、近世の城館と比較してもはるかに規模が大きい。周囲には幅3m、高さ5mほどの築地が廻り、南辺中央に南門、東辺北寄りに東門、西辺南寄りに西門がそれぞれ位置している。中世の山城とはおのずとその性格は異なるが、南は湿地帯、西は七北田川、北は加瀬沼に守られ、周囲を頑丈な築地塀と木塀に守られた、軍事的な要塞としての側面も持つ。

建物の配置は、中央に正殿を置き、左右前方に脇殿を配し、南正面には南門があり、門から築地が延びて四周を囲んでいる。これは、大宰府政庁や各国の国府の政庁に共通する形であり、多賀城政庁が国府に関わる大規模な官衙(かんが)の中枢であったことを示している。政庁以外にも城内の所々で役所の実務を司った建物跡群や竪穴住居跡が発見されている。

陸奥守は、陸奥、出羽按察使も兼任し、より大きな権限をもって陸奥、出羽両国を統轄し、鎮守将軍をも兼任して軍事も掌握していた。国守の職掌は多岐にわたり、律令制に基づいて公民を支配するために広範な行政、人事、司法、軍事、警察権などをもっていた。この他に陸奥国守には、宴会や贈物を与えて蝦夷を支配下に入れる「饗給(きょうごう)」、軍事力によって蝦夷を支配下に入れる「征討(せいとう)」、蝦夷の動静を探る「斥候(せっこう)」という特別な役目が与えられていた。

天平宝字4年(760)には現在の石巻市に桃生城が完成した。しかし宮城県北部は、いまだ蝦夷の勢力が強く、宝亀5年(774)には蝦夷による攻撃を受け、城内の主要な建物は火災で焼失した。この事件以降、陸奥出羽における蝦夷の離反と反乱が多発する。

宝亀11年(780)、伊治公呰麻呂が、陸奥按察使紀広純と、陸奥介大伴真綱、牡鹿郡大領であった道嶋大楯らを殺害、蝦夷らがこれに呼応して、陸奥国府の多賀城を襲撃し、物資を略奪して城を焼き尽くす事件が発生した。

呰麻呂は、現在の宮城県内陸北部の栗原市付近に勢力を持っていた蝦夷の族長である。8世紀中期以降、大和朝廷は、本州北東部への版図拡大では、城柵を置き柵戸と呼ばれる移民を移住させて支配の拡充を図りつつあった。現地の蝦夷に対しては、時に軍事的に征圧する場合もあったが、基本は撫慰であり、帰順した蝦夷を使って他の蝦夷を懐柔させるような形で行われた。

呰麻呂は大和朝廷に帰属し、朝廷より伊治公の称号を与えられ、また、宝亀8年(777)に行われた海道・山道蝦夷の征討に功があったことで、外従五位下という、地方在住者としては最高の位階を授けられていた。

しかし牡鹿郡大領の道嶋大盾は、同じ大領ではあるが蝦夷ではなく、近衛中将・道嶋嶋足の一族であり、俘囚出身の呰麻呂をことあるごとに見下し、侮り、呰麻呂は大盾のことを密かに恨んでいたという。

また呰麻呂の個人的な恨みだけではなく、蝦夷らは、故地に城柵を設けられ土地を奪われ、労役や俘軍への徴発など負担を強いられてきたことに不満を募らせていた。

宝亀11年(780)、新たな城柵の造営にあたり、紀広純、道嶋大盾らが伊治城を訪れた。このとき、呰麻呂は蝦夷軍を動かし、按察使の紀広純、大領の道嶋大盾を殺害し、伊治城に火をかけた。

陸奥介の大伴真綱(おおとものまつな)は多賀城に逃れ急を報じた。多賀城に逃げ帰った大伴真綱は、城内に逃げ込んだ城下の住民を放置したまま、戦うことなく逃走し、やむなく住民も逃げ散ったとされる。数日後、蝦夷軍は城に入り、府庫の物資を略奪し、城に火を放って焼き払った。

陸奥国、出羽国両国統治の最高責任者であった陸奥按察使が殺害され、多賀城が失陥したことにより、政府による東北地方の経営は大打撃を被った。ただちに征東大使、出羽鎮狄将軍を派遣して軍事的な鎮圧に当たらせたが、兵糧や人員不足で、陸奥国の動乱はより深まっていく中で、朝廷軍は解散してしまった。

呰麻呂は、結局、捕縛されることはなかったようで、他の族長らと連携しながら、戦い続けたのかもしれない。そしてこの多賀城炎上は、燎原の火のごとく、蝦夷三十八年戦争へと広がっていくことになる。

宮城県栗駒町にある鳥矢崎古墳は、発掘の結果、ここには中央の埋葬形式の古墳と、北方型の埋葬形式の古墳が確認されている。このうち中央型古墳は、出土品からみて国司クラスの一族の墓と推定される。この地域で国司クラスの人物といえば、伊治公呰麻呂の一族の他は考えられず、呰麻呂、あるいは阿弖流為の墳墓とする説もあるようだ。

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