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葦名氏は、葦名盛氏の死後、後継を巡り大混乱となっていた。結局、佐竹氏、あるいは伊達氏から養子を迎えることになったが、家臣団は佐竹派と伊達派に分かれ、結局、佐竹義重の実弟の佐竹義広が養子に入り葦名氏を継ぐことになった。

この時期、佐竹氏は白河結城氏を実質的に支配下に置いており、南奥における地歩を固めつつあり、伊達氏は人取橋の戦いで勝ちを拾い、二本松城を手中とし、葦名氏、佐竹氏との対決姿勢を強めていた。

葦名、佐竹氏と共に反伊達連合に加わっていた南奥・仙道の諸将は、次々と伊達の傘下に入りつつあり、葦名氏、佐竹氏勢力の危機感は高まっていた。この時期、すでに豊臣秀吉により「惣無事令」が出され天下統一は間近な状況にあり、伊達政宗は南奥制覇を急いでおり、葦名氏の本拠会津を奪うべく行動を開始した。

伊達政宗は、予てより猪苗代盛国へ内応を勧めていたが、天正16年(1588)に入ると葦名氏と伊達氏の争いは激化し、翌天正17年(1589)5月4日には安積郡の安子島城、5日には高玉城を攻め落とし、仙道と会津を結ぶ交通の要衝が押さえられた。

これに対し、会津黒川城の葦名義広は、5月27日、佐竹、岩城氏らと共に伊達勢と対峙するため須賀川に出陣していた。6月4日夕刻、政宗は安子島を発し、夜更けに伊達方についた猪苗代盛国の猪苗代城へ入城した。

同日、伊達方の動きを察知した葦名義広は須賀川より急ぎ黒川へ戻り、夜更けに猪苗代に出陣した。葦名方総勢1万8千は、摺上原の西に陣取り、葦名義広は、南高森山に本陣を置いた。一方伊達方2万1千は、摺上原東に陣取り、本陣を八ヶ森に置いた。

この当時の葦名氏は、天正8年(1580)の葦名盛氏の死去以来、主家に不満を持つ者、伊達氏に内応する者、佐竹氏より送り込まれた当主の葦名義広に対し不満を抱く者などがおり、様々な思惑から団結力に乏しかった。

合戦の火蓋は6月5日早朝、葦名方の先陣、富田将監勢が伊達方の先陣、猪苗代盛国勢に攻めかかることによって切られた。開戦当初は西からの烈風が追い風となり、葦名軍が伊達軍に対して有利に戦っていた。将監勢は猪苗代勢を破り、更に原田、片倉勢を突き崩し、伊達方に内応した葦名の旧臣太郎丸掃部による横合いからの鉄砲で多くの犠牲者を出しながらも孤軍奮闘し、政宗本陣へ進撃していた。

しかし、葦名方の二陣佐瀬勢、三陣松本勢、後陣平田勢は、これに続こうとはしなかった。兵を進めなかったばかりか軍見物の雑人たちが伊達勢に撃ち崩されたのを見て、葦名勢の敗軍と思い戦わずして崩れてしまった。

風向きも東風となり、伊達軍は浮き足立った葦名勢を追い、日橋川に追い込んだ。猪苗代盛国が日橋川にかかる橋を引いて置いたのを知らず、多数の兵が川に溺れて命を落とした。葦名方は総崩れとなり、葦名義広は僅かな近習に守られ、黒川城に逃れた。

葦名氏は金上盛備や佐瀬種常といった有力家臣の多くを失い、事実上壊滅した。また、その後当主が実家の佐竹氏のもとに逃亡したことにより、鎌倉時代以来の名族葦名氏は完全に滅亡した。

これにより伊達政宗は、南奥の覇者となり、居城を会津黒川城へ移した。しかしながら、翌年の豊臣秀吉の奥州仕置により、これは秀吉の出した「惣無事令」に違反しているとして、会津領は没収され、会津の地は蒲生氏郷が支配することになる。

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