現在の桧原湖のある地は、会津の葦名氏の北の境の地で、米沢の伊達氏への守りとして穴沢氏が配されていた。穴沢一族は伊達勢を幾度も撃退し、強兵の名を欲しいままにしていた。しかし現在は、その名残の多くは湖底に沈んでいる。
穴沢氏は、源義光の四男の、平賀盛義の後裔とされている。越後魚沼の穴沢村が本貫の地だったようだが、文明年間(1469~87)、理由は不明であるが、穴沢俊家は、350人の郎党を引き連れ会津に入った。
当時、大塩峠から蘭峠辺りの山中には兇賊がいて、里を荒しまわっており、里人らは黒川の葦名十三代当主、盛高に訴えていた。盛高は、穴沢衆に兇賊の掃討を依頼し、穴沢俊家はそれを引き受けた。穴沢一族は山岳戦に長けていたようで、俊家は、四方より包囲して山賊270余人を討ち取り、その巣窟を一掃した。盛高はこれをおおいに感賞し、桧原の地を所領として与え、米沢の伊達への押さえとした。
信徳の代には、米沢の伊達輝宗が、度々侵攻してきた。永禄7年(1564)4月には伊達勢2500が戸山城を攻めようとした。これに対し信徳は、桧原峠に兵を出し、これを撃退した。翌年7月、翌々年正月にも伊達勢の侵攻があったが、信徳はその都度これを撃退し、葦名盛氏より恩賞として耶麻郡大荒井村を与えられた。
桧原の地は豪雪地帯で暮らしは厳しく、米の収穫もほとんどなかった。しかし大荒井村は峠を越えていかなければならない遠隔地だった。そのようなこともあり、信徳の子の信堅のとき、隣接する小荒井村の地頭小荒井阿波の申し出により、年貢の徴収を小荒井氏に任せることになった。しかし小荒井氏の年貢の取り立ては厳しく、大荒井の里人からの直訴などもあり、小荒井氏を詰問するため、信堅ら穴沢衆が里に向かい、そこで小荒井勢と戦いになってしまった。穴沢勢は戦いには勝ったが、葦名盛隆に私闘と断じられ、信徳が恩賞として拝領した大荒井村を没収された。
穴沢氏にとって大荒井村は米がとれる重要な地で、穴沢衆には当然この措置に対して不満を持つ者が多かった。これを聞いた米沢の伊達政宗は、穴沢氏の切り崩しにかかった。
この当時の葦名氏は、盛氏に先立ち後継の盛興が死去し、その未亡人の彦姫と二階堂氏から人質として黒川に入っていた盛隆を娶せ葦名氏の当主とし、盛氏は天正8年(1580)に没した。その盛隆も天正12年(1584)には、男色関係のもつれから近習に斬り殺されてしまい、生まれたばかりの盛隆の子の亀若丸が当主となっていた。
葦名氏の混乱を知った伊達政宗は、信堅に内応をすすめたが、信堅の伊達氏に対する不信感は強く応じなかった。しかし、信堅の従兄弟の四郎兵衛は政宗に内応し、穴沢一族が大きな宴を催すことを知らせた。政宗は、その機に奇襲することを決めた。
「桧原戦物語」によれば、穴沢一族は、猪苗代道沿いに風呂屋を建て、芝居小屋も招き、一族は酒をかわし、中には裸同然の者もおりほとんど無防備の状態だった。そこを伊達勢1500が奇襲をかけ大混乱になった。穴沢氏の岩山城から、応援部隊が下ったが、政宗は鉄砲隊や弓隊でこれを蹴散らし、大塩方面の退路も絶ち、穴沢一族の多くが討ち死にした。
信堅の子に広次がおり、この変事の時には桧原を留守にしていた。大塩に帰りこの変事を知り、桧原の伊達勢を追い落としを願い、先陣を申し出た。しかし四天の宿老たちは慎重で、時期が来るまで待機することを命じた。
その後、政宗は桧原に新たに会津侵攻の拠点として桧原城を築いた。広次らは葦名の兵をかり、桧原に攻め入ることを進言していたが許されず、やむなく、天正14年(1586)4月、穴沢一族の残余の者300余人をもって桧原城を急襲した。城方は500余人が城から打って出てきたが、穴沢勢は戦いつつかつ退き、味方の伏せているところまで、城兵をおびきよせ、また急に攻め、これを大いに破って敵の首級50余をあげたとされる。
天正17年(1589)、佐竹氏から養子に入った葦名義広は、伊達政宗と摺上原で戦い敗れ、大名としての葦名氏は滅亡した。穴沢一族は大塩村から退去し山中に潜んだ。のち蒲生氏郷が会津に入るとこれに仕え、桧原村に帰住した。その後、上杉・加藤両氏が会津を治めたときも桧原に居住し、寛永20年(1643)、保科正之が会津に入封してからは、広次の子光茂に禄が与えられ、北境守備の任にあたった。
かつての桧原村の多くは、明治21年(1888)の磐梯山の噴火でできた桧原湖に沈んでしまった。現在ある穴沢氏の五輪塔や墓石は、桧原湖に沈んでいたものを、この地に集め祀っている。