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みちのくには各所に西行法師の伝説が伝えられており、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのも、尊敬していた西行の旅を模してのことだったようだ。

西行は、出家前は佐藤義清と名乗り、 その家系は、むかで退治で有名な俵藤太秀郷で、「平将門の乱」を平定した武人の家系である。その秀郷の子に千晴・千常の兄弟がおり、前者の家系は、奥州平泉の藤原三代となって栄華を誇り、後者は鎮守府将軍に任ぜられて東国一円に勢力をのばした。西行の家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。保延3年(1137)頃は、平清盛とともに鳥羽院の北面武士としても奉仕しており、和歌と故実にも通じた才人として知られていた。保延6年(1140)23歳で出家して、後に西行と称した。

出家の理由は一説には親友の死に無常を感じたともいわれているが、「源平盛衰記」には、高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとあり、また近世初期成立の「西行の物かたり」には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになったとされている。

この「女院」とは、他の記録から推測するに、鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子(たまこ)であると考えられ、女院が情けをかけて一度だけ逢った。このとき西行はまたあってくれるように頼んだが、 女院に「あこぎ」と言われて世をはかなんで出家したようだ。
   逢ふ事を 阿漕の島にひく網の たび重ならば 人も知りなむ(古今和歌集)
歌の意味は、隠し事を何度も重ねれば、みんなに知られますよ、という意味で、要するに「しつこい」と袖にされたということだろう。


出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し、天養元年(1144)頃に奥羽へ旅し、また、文治2年(1186)には2度目の奥州下りを行っている。これは、祖先を同じくする奥州藤原氏を頼り、東大寺再建の勧進を行うためだったようだ。この旅の途中では、鎌倉で源頼朝に面会し、頼朝に弓馬の道のことを尋ねられたが、一切忘れはてたと答えたと云う。また頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとも伝えられる。

この2度目の奥州への旅の途中、西行は、岩手県野田村の、 玉川海岸近くの丘にしばし草庵をむすび暮らしたという。この地は、歌枕の「野田の玉川」の地とも伝えられている。

この野田玉川の近くに 大唐の倉という美しい断崖があり、その昔、平重盛の子の上総太郎と相模次郎の二人と、宋の高僧を乗せた船が漂着したと伝えられている。上総太郎は、源平の戦いの前に、父の命により宋の霊隠寺へ遣わされた。ところが宋より日本に帰国した時には父はすでに没し、源平の戦いも終わり平氏は没落していた。太郎は、弟の相模次郎とはかり、一時北へ逃れることとし出航したが、海上難風に遭いこの地に漂着しこの地に定住したという。

西行は平清盛とは共に北面の武士だったことがあり、平家とはそれなりのつながりがあったようで、もしかするとこの 大唐の倉の伝説と野田玉川の伝説は繋がっているのかもしれない。