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津軽為信は、南部からの津軽独立に際しては、南部氏に先んじていち早く豊臣秀吉のもとに上がり、本領を安堵された。このとき、為信と秀吉の間に入って尽力したのが石田三成だった。為信は、三成の恩義を終生忘れなかったようだ。

その後、石田三成と徳川家康は反目し、関ヶ原の戦いに突入していくことになる。石田三成に恩義を感じていた為信だったが、石田方につけば、徳川方の南部氏の強大な勢力が、津軽に襲い掛かってくることは必定だった。当時、為信の嫡男の信建は、豊臣秀頼の小姓として大阪城にあった。為信は手勢300騎を密かに大阪城に入れ、次男の信牧を徳川方につかせ、自ずからは日和見にまわり、石田方や徳川方との折衝に当たった。

徳川家康は、津軽為信と石田三成との間を知らないはずもなく、服部康成を軍目付として為信につけ、大垣城攻めの先陣をつとめるよう命じた。為信と次男の信牧は、この大垣城攻めに大きな功を挙げた。

関ヶ原の戦いでは、結局、西軍は敗れ、石田三成の居城の佐和山城も落城した。三成の次男の石田重成は、関ヶ原の戦いの際には、小姓として豊臣秀頼の守護にあたっていた。重成とともに大阪城にあった津軽信建は、重成と三成の娘の辰子姫を父為信の陣に逃がし、為信はこれを津軽に匿った。

石田重成は、現在の板柳町の地に隠れ住んだと云われている。重成はこの地で名前を杉山源吾と変えてしばらくの間過ごしたが、間もなく黒石方面に移ることになった。しかし持って来た守護神が急に重くなったためこの地に深い執着があるのだろうとこの地に安置し、「杉山八幡宮」と称したといわれている。 この御神体は、豊臣秀吉の守仏で、石田三成が賜ったものだったという。また、重成が持っていた秀吉の木像は、津軽為信により弘前城内に館神として密かに祀られたといわれている。

重成のその後は諸説あるが、その長男の吉成は、弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職についており、子孫は代々弘前藩の重臣として存続した。

妹の辰姫は津軽信牧の室となったが、その後、家康の養女となった満天姫が正室に定められ、辰姫は飛地の上野の大館に移り、若くして没した。しかし信牧と辰姫の子の信義が津軽藩三代目藩主となり、石田三成の血は代々受け継がれることになった。

杉山源吾重成の子で三成の孫にあたる杉山八兵衛吉成は、津軽二代藩主津軽信枚の娘を妻とし、累進して寛永21年(1644)には1300石という大身の禄を食み、藩政の中核を担う重臣となった。

四代藩主・津軽信政の時代の寛文9年(1669)に、津軽藩にシャクシャインの乱鎮圧の命が出され、杉山吉成が侍大将として兵700を率いて松前へ出陣した。

シャクシャインの乱は、もともとは、アイヌどうしの漁労・狩猟のなわばりをめぐる争いに端を発したものだが、その争いを調整できなかった松前藩や、アイヌ社会の秩序を混乱させた和人たちに対する不満がアイヌの中に渦巻いており、そうした不満や社会不安を背景に起きた。

幕府はこの乱に対して、北奥羽の諸藩に加勢準備を指示したが、弘前藩の動きは、他藩に比べて素早く、そして積極的だった。結果的には蝦夷地に出兵したのは弘前藩だけだった。八兵衛吉成は、戦場の最前線の長万部まで進軍しようとしたが、松前藩から拒否され、実際に戦闘することはなかった。

しかし、八兵衛吉成は、忍者集団「早道之者(はやみちのもの)」を統率しており、蝦夷地の調査や監視活動を行い、戦況の変化を頻繁に国元へ報告し、その報告は幕府にももたらされた。

この乱以降、弘前藩には「北狄の押さえ」という考えが生まれた。弘前藩は、幕藩体制下、「北狄の押さえ」により自己の立ち位置を明確化し、藩政時代を通じて自己認識の要とした言葉である。蝦夷地が有事の際には、その最前線基地として自らを位置づけ、その事実を藩内外にアピールするためだった。

八兵衛吉成は、状況報告のために江戸へ向かった。江戸城に登城した八兵衛は、老中等幕閣と面会し、蝦夷地での状況を報告し、幕府から受けた扶持米の礼を藩主に成り代わって述べた。若年寄の土井利房からは、松前への出兵と、そこからもたらされる八兵衛からの情報に対して、老中たちが「残すところのない働き」であると評価したことを告げられた。

石田三成の遺児を匿ったことは、為信が生前の徳川家康の内諾を受けていたこともあり、八兵衛吉成が石田三成の孫であることは幕閣たちも知っていることだった。その吉成に対しての幕閣の賞賛の言葉は、祖父石田三成や、遠く津軽まで落ち延び、侘しく没した父源吾のことが、吉成の脳裏をよぎったかもしれない。

石田三成の系譜は、江戸時代を通じて明治まで津軽家の中で生き続け、明治に入ってからも、津軽の教育振興に尽力するなど活躍し、現在に至る。