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琉球史を、蝦夷の歴史などとともに日本の地方史とする場合や、琉球民族と日本民族は異なる民族と考える場合などで、同じ歴史でもその様相はかなり異なるものになる。

ここでは、現代では、言語、宗教観、文化において、また遺伝子学的にも大きな差異のない沖縄は、東北地方や北海道とともに、すでに同一民族、同一国家であるとの観点から、沖縄の歴史を俯瞰していく。

日本は琉球に限らず、少なくとも神話の時代から大和朝廷が成立する時代までは、現在の日本は小国が割拠する状態で、「琉球国」ももちろん存在せず、現在の沖縄本島、先島諸島、奄美群島とそれぞれが「独立」しており、本土でも、出雲や常陸、出羽、蝦夷地なども「独立」していたといえる。

琉球は、天帝が、阿摩美久(あまみく)という神を下界に遣わし、琉球の島々を創らせた。阿摩美久は、天帝に人の種子を乞い、天帝はこの願いを聞き入れ、自らの御子の男女を降臨させ、二人から三男二女の子が生まれ、長男は天孫氏の始祖、次男は諸侯の始祖、三男は百姓の始祖、長女は君々(高級神女)の始祖、次女はノロ(地方神女)の始祖となったとされる。

天孫氏は25代、17802年間琉球を統治し、25代目のときに家臣によって滅ぼされたとされる。

これらの神話は、ポリネシアなどの南太平洋島嶼地域との関連が考えられており、日本の神話もその類型であるとされるが、定かではない。

琉球は、7世紀の中国の史書『隋書』に、大業6年(610)に隋が侵攻した国「流求」として記述されているのが史書における初出である。隋書においては、「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としており、現在の沖縄本島とは異なる、琉球諸島の一部とも考えられる。

また元以前は、台湾が琉球と呼ばれていたとされ、その地が現在の沖縄と確定されたのは、明時代からとされる。

25代続いた天孫氏が家臣の謀反により滅亡すると、源為朝の子がその乱を収め、中山王となったとされる。定説では、源為朝は弓の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称した。保元の乱では、父為義とともに奮戦するが敗れ、伊豆
大島へ流された。

しかし国司の命に従わず、伊豆諸島を事実上支配し追討を受け自害した。しかし琉球の伝説ではこのとき追討を逃れ、琉球にわたったとされる。

為朝は、沖縄本島の今帰仁に漂着し、上陸した地の豪族、大里按司の妹と結婚し、生まれた子を尊敦と名付けた。尊敦は浦添按司として善政を敷いていたが、天孫氏滅亡による混乱を収め、22歳の時に諸侯の推挙を受けて中山王となり舜天王となったと云う。その後、王統は3代にわたって続き、1259年に天孫氏の末裔とされる英祖に王位を譲ったとされている。

この時代、日本本土は鎌倉時代で、紆余曲折しながら、奥州の「独立勢力」だった平泉を平定し、蝦夷地と琉球を除く国内一帯に武家政治が敷かれた。その後、室町時代に推移していくが、琉球は本土の武家政治の影響を受けることはほとんどなく、独自色の濃い歴史を展開して行く。

しかしそれでも沖縄本島は、大きく3つに分かれ、また周辺の先島諸島などの島嶼部は「独立」を維持し、琉球国は成立してはいない。13世紀の間は、台湾、先島諸島、沖縄、奄美のいずれの地域も小勢力の割拠状態が続いていた。

中国大陸や日本列島の中央政権からは認識が薄かったが、14世紀に入り、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が、明の皇帝に朝貢したことで認識が高まった。また当時の室町幕府の足利義満も日明貿易を行い、琉球とも貿易を行った。

この当時の明との貿易は、明の家臣である冊封国の国王が、明の皇帝に朝貢し、皇帝の頒賜物を日本に持ち帰る建前のものだった。

当時の沖縄は、現在の那覇市、浦添市を中心に中山王国があり、南に南山、北に北山王国がそれぞれあった。沖縄本島は統一されてはおらず、全体として地方豪族の集合体と言えるものだった。中山王国内も、舜天王統から英祖王統、察度王統、第一尚氏王統とめまぐるしく変化していった。

尚巴志が察度の世子の武寧を滅ぼし、第一尚氏王統が始まると、1416年に北山王国を、1429年に南山王国を滅ぼし、三山の統一をはたし、琉球王国が成立した。

第一尚氏王統は、日本本土や中国、朝鮮半島はもとより、ジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大した。

しかし依然として地方豪族の勢力は強く、有効な中央集権化政策を実施することはできず、王位継承権争いなどでの内乱が絶えず、政権としては63年間で瓦解した。

1462年、尚氏政権の重臣だった金丸(尚円王)がクーデターにより王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。この第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の豪族を首里に集住させ、中央集権化に成功した。その後、彼の治世において、1500年には石垣島を平定し、さらに1522年には与那国島を制圧、現代まで続く先島諸島の統治権を確立した。1571年には奄美群島北部まで進軍して勢力下におさめ、最大版図を築いた。

この時代の本土は戦国期に当たり、各地の領主らは、琉球と同様に、周辺大名豪族らを併呑しながら戦国大名化し、それらは、1585年の豊臣秀吉による四国征伐、1590年の小田原征伐により、ほぼ統一された。

ここまでの琉球は、明の冊封国ではあったが、ほぼ独立した状態ではあった。しかしその天下統一の流れから琉球だけが別なわけもなかった。琉球が先島諸島を平定し版図を拡大してきたように、中央集権化の最終形として豊臣秀吉の目は琉球にも向けられていた。

豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に琉球に助勢を命じた。琉球は明の冊封国であったため、国王は一旦拒否したが結局抗しきれず、日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。この時点で、日本の中央政権は、琉球を日本の版図として考えていたのは明らかだ。

それでも中央政権が、明とのその後の関係を考えての事だろう、本土の多くの軍兵が朝鮮に出兵したが、琉球は兵を出すことは免れた。

その後、徳川家康により江戸幕府が開かれることになる。1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着し、徳川家康の命により、1603年に琉球に送還された。江戸幕府は、薩摩を介して家康へ謝礼のための使節を派遣することを要求したが、琉球王国は最後までこれに応じなかった。

これは徳川家康が明との交易を望んでいたことと、遠隔地の故に放置されていた琉球の幕藩体制への組み込みを意図してのものだろう。琉球がこれを渋ったのは、琉球が明と日本とに、両属した形を維持し、明との朝貢貿易を続けたい為だったろう。最終的に1608年に島津家久が使僧を琉球に送り諭したが、逆に侮蔑され交渉は決裂した。そして幕府はついに琉球を討つことを決し、琉球征伐を薩摩に命じた。

薩摩軍は総勢3000人、80余艘の軍勢は1609年3月出港した。琉球では、統一後はすべて武装を解除させ、軍を持つのは中山だけだった。奄美大島の領主は戦う術もなく、琉球を見限り、大島での戦いは無かった。徳之島では一部島民が果敢に抵抗したが、得物は棍棒や竹やりで、鉄砲で武装した薩摩軍の前に速やかに制圧された。3月の末、薩摩軍は沖縄本島北部の今帰仁城を攻めたが、すでに兵は
逃げ落ちており空城だった。

琉球の軍勢は4000程だったというが、幕府の要請に対して、日本派と明派とに割れて、小田原評定を続け、戦いの準備をするわけでもなく、明の応援も得られない中、薩摩に攻め込まれた。

琉球勢の武装は貧弱で、戦国期を戦い抜いた薩摩軍に抗すべくもなく、琉球は和睦の道を選んだ。尚寧王は首里城を開城し、5月、鹿児島へ渡り、8月、江戸城にて秀忠に謁見した。1611年、琉球は島津氏の附庸国となり、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。

薩摩藩は、明と、その後の清との朝貢貿易の必要上、第二尚氏を存続させ琉球王国の体面を残しながら間接支配するようになった。これにより琉球は多少変則的ではあったが、徳川の幕藩体制に組み込まれた。

日本の幕藩体制下にあることを確認させるためだろう、琉球の尚氏代々の王は、琉球国王の代替り毎には謝恩使を、将軍の代替り毎には慶賀使を江戸上りで派遣する義務を負った。

天下統一期に、中央政権に反抗した小田原の北条氏や、小田原攻めに参陣しなかっただけで取りつぶされた多くの氏族と比較すれば、この琉球に対する処置は、破格の寛大な処置と言える。この処置により、形式的であれ、琉球王国は存続し、鎖国下の江戸幕府を背後に平和を享受し朝貢貿易を行い、独自の文化を育むことが出来た。

14世紀の三山時代までは、「琉球」という概念すらない小勢力割拠の時代であり、16世紀末の天下統一以降は、江戸期の幕藩体制に組み込まれた。

独立した「琉球史」があるとすれば、長く見ても15世紀から16世紀末までの100年から150年間ということになり、それ以降の歴史は日本史の中で語るべきものだ。

現代の沖縄が、国際情勢を俯瞰することなく、中国に擦り寄るかのごとく振る舞っている様子を見ると、天下統一期に国替えも行われずに、特例として「王国」の体面を残した「温情」こそ、歴史的に見れば沖縄の悲劇の原点といえるかも
しれない。

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