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佐竹氏は、豊臣政権下では五大老に次ぐ影響力を持ち、石田三成とは昵懇であり、上杉景勝とも親交があった。関ヶ原の戦いの時期には、2万の兵力を動員することが出来たと云うが、西軍寄りの行動をとり、そのため関ヶ原後、石高不明のまま秋田に移封された。このとき徳川家康の命で京にあった義宣は、所領の常陸に戻ることも許されず、そのまま京から、わずか90余騎の供連れで直接秋田に入ったと云う。

当初は、安東氏の居城だった土崎の湊城に入ったが、平城であり要害の地ではないとの理由から新しく秋田の神明山に久保田城を築城した。久保田城がある地は西側を仁別川(旭川)、東側には当時長沼があり、北側にも水堀をまわし、丘陵の地形を活かした急斜面と郭で守られている。南側は四重の水掘を廻し家臣を配し固めている。

平城で、高い石垣や天守閣は設けなかったのは、徳川幕府に対しての配慮だったともいわれているが、実際にこの城を子細に見れば、随所に山城の技巧が凝らされており、明らかに戦いを意識した城であることがわかる。場合によっては徳川と一戦交えなければならないかもしれないという緊迫感がある。

久保田城内には、館神として稲荷が祀られており、与次郎稲荷と呼ばれている。この稲荷には次のような伝説が伝えられている。

ある日、佐竹義宣の前に、一匹の大きな狐が現れ、「私は、この神明山に住んでいた齢三百の狐である。このたびの築城により、住む場所をなくし困っているので住む場所を与えてほしい。もし願いがかなえられるならば、必ず殿の役にたちますほどに」と願い出た。

これを不憫に思った義宣は、狐に城の茶園の近くの場所を与え、「茶園守の与次郎」と呼んだ。与次郎狐は約束通り、義宣のため飛脚として秋田~江戸をわずか6日で往復し大いに働いた。しかし、与次郎狐の活躍により仕事をなくした飛脚たちの恨みをかい、羽州街道の山形六田村で罠にかかり殺されてしまった。

与次郎狐の死を哀れに思い、義宣が祠をつくりその霊を祭ったのが、与次郎稲荷神社だと伝える。この与次郎稲荷は、殺されたとされる、山形県東根市にも祀られており、與次郎狐の恋人のお花がこの地を訪れ手厚く葬ったものという。

この與次郎の姓は「那珂」となっており、佐竹家中のれっきとした士分の者とも思われる。また、秋田藩が参勤交代でこの地を通る折には、たびたび参拝したとも伝えられており、そう考えると六田村で殺されたのには、相応の理由があったものとも考えられる。

この時期、佐竹氏は、大減封され秋田へ移封されて間もない時期であり、石高も定まっていない時期だったろうと思われ、また、佐竹義宣は、京から秋田に、旧領に立ち寄ることも許されない中での、わずか90余騎の供連れでの左遷だった。
旧領に残されたままの家臣も多くあり、家中は、強硬派と恭順派とに割れていたことが推測でき、与次郎は義宣の意向を携え、江戸との交渉や、旧領との連絡に当たったものと推測する。

当然、徳川方も佐竹氏の去就を注視していたはずで、恐らく与次郎は、佐竹家中の強硬派により暗殺されたのではないかと考えられる。強硬派の存在が徳川方に知られれば、徳川方を刺激する恐れもあり、そのため佐竹氏はこの事件を隠し、忠臣である与次郎を、伝説の中で与次郎稲荷として祀ったのではないかとここでは推測する。

現在、久保田城の一帯は千秋公園となり、県民会館や図書館、美術館などがある。建造物としては、大火を唯一逃れた御物頭御番所が現存し、本丸表門が復元され、隅櫓があった位置に、資料館として模擬櫓が建っている。佐竹藩は、その後は転封もなく、秋田佐竹初代藩主義宣から十二代の間、秋田藩を統治し明治に至った。

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