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1631年、270余年続いた明は滅亡し、1636年、ヌルハチが、大清国を建国し皇帝となり、1649年、琉球にも帰順を要求してきた。琉球は明朝復活の可能性を考え様子を伺っていたが、復明抗清の旗印を掲げ、海上から頑強に抵抗していた、鄭成功が敗れ、明朝復活の糸が断たれると、琉球は清に帰順し清から冊封を受けることになった。

この当時はすでにオランダやイギリスが東インド会社を設立し、東南アジア貿易ではヨーロッパ諸国にその座を奪われており、琉球はそれほど大きな地位は占めていなかった。しかし清は門戸を閉ざしており、薩摩藩は、清との貿易の手段として、琉球の位置づけに着目していた。つまり、日本は清の家臣としての冊封国ではないために清との貿易はできなかったが、琉球は明、清と冊封関係を結び、古くから朝貢貿易を行っていたため、この形式を存続させ清との貿易を行った。

18世紀になると、日本近海には外国船が出没するようになり、ロシア船が日本に通商を求めに来航するなどしており、海防の必要性が取りざたされていた。19世紀に入ると、ヨーロッパ列強は、アフリカやアジアでの植民地の拡大を競い、中国、朝鮮、日本の東アジア諸国に開国を迫るようになった。イギリスは、清とのアヘンの密貿易で莫大な利益を得ていたが、清はアヘンの輸入を禁止したことからイギリスと対立し、1840年、アヘン戦争が勃発した。結局は近代兵器を駆使した圧倒的なイギリスの軍事力の前に清は敗れた。その結果、南京条約が結ばれ、各所の港が開かれ、多額の賠償金と香港のイギリスへの割譲がなされた。

清の敗戦は、清の商人によっていち早く幕末の日本に伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。強国である清の敗北は、ヨーロッパ列強によるアジアの植民地化が進むのではと言う危機感を日本に募らせた。

アヘン戦争によりイギリスが得た物は多く、フランスはそれに遅れじと、1844年清に使節を送り、清がイギリスと再度戦争することになれば、フランスは清国を援助する清仏同盟条約案を提起し、清を援助するための代償基地として一定の地域を、フランスへ割譲するように要求した。その地域のひとつに琉球が含まれていた。

フランスは、琉球を東アジア進出の中継拠点として重要視しており、3回にわたり琉球に艦隊を送った。フランスはイギリスが琉球を占領しようと考えていることを伝え、フランスの保護の下に、薩摩の支配から脱することを勧めた。要するに琉球を保護国としてライバルのイギリスと対抗するための拠点を築くことであったと考えられる。

アメリカもまた琉球を狙っており、1853年5月にペリーがサスケハナ号他3隻を率いて那覇港に来航、首里城を訪れ国王等に品物を贈り、艦隊への資材の供給を行い浦賀に向かった。ペリーは7月に大統領の親書を江戸幕府に渡し、その帰途琉球に寄り、資材施設の建設や交易の自由など4か条の要求を行いこれを承諾させた。

ペリー艦隊は翌年に再び来航し、7月には、日本と日米和親条約を締結し、琉球との条約も修正された。1855年にはフランス艦隊も再び来琉し、アメリカに先を越されたため、フランスはこれまでになく暴力的で威圧的だった。琉球は、交渉を引き延ばそうとしていたが、フランスの提督は激怒し、兵士に建物を包囲させ、刀を突きつけ強引に条約に署名をさせた。

この条約はアメリカとの条約よりも不利なもので、琉球へのフランス海軍の軍事施設の設置が可能となっていた。これは、フランスが極東において戦争をする時の軍事拠点としたいとの思惑があったと考えられる。しかしこの日本の開国と清の没落により、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また中継貿易を支えた、日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

アヘン戦争やアメリカやフランス艦隊の来航などにより、幕府のみならず日本中に大きな危機感が生まれた。アジア情勢は、幕府にも薩摩藩などから正確に入っていた。とくに薩摩藩は、形式として清の朝貢国であった琉球王国からの情報により、正確に情勢を把握できる立場にあった。列強の力を知った薩摩はいち早く開国論に転じ、やがて倒幕へと向かうことになる。

ペリー来航以来、琉球を除いた日本国内には尊王、佐幕、攘夷、開国論が渦巻き、幕藩体制が揺らぎ始め、京都を中心に内乱勃発前夜の状況となる。しかし、アジアの大国の清の冊封国の立場を持つ琉球には、欧米諸国に植民地化されるかもしれないという危機感は希薄だったようで、大政奉還の前年の1866年、琉球では清から冊封使を迎えて新王尚泰の即位式を行った。

1867年10月、将軍徳川慶喜は大政奉還を行い、それに対して薩摩、長州らの討幕派は王政復古の大号令を宣言、翌年1月には鳥羽伏見の戦いへと突入する。この戦いは、幕府側の敗北となり、討幕軍は江戸へ進軍し、同年3月には江戸城は無血開城する。官軍となった討幕軍は、その後東北地方へ軍を進め、同年6月、白河口の戦い、7月二本松戦争、8月北越戦争、会津戦争、1869年3月函館戦争と各所で戦いがあり、白虎隊や二本松少年隊、会津娘子隊など、老若男女に関わらず、多くの者が犠牲になった。また、戦後処理での混乱の中、父祖の地を捨てて北海道に新天地を求めた者も多かった。

戦乱後の新政府の最大の関心事は欧米列強の動きだった、戊辰戦争の最中にも、新政府軍の側にはイギリスが、幕府側にはフランスが付くなど、日本を植民地化する野望が見え隠れしていた。新政府はそのような動きに対して、出来るだけ早い「富国強兵」を行わなければならず、その中の政策の一つが1871年の「廃藩置県」だった。

廃藩置県の翌年の1872年、琉球国王、尚泰は、明治政府により「琉球藩王」とされるとともに華族とされ、これにより琉球藩が設置された。しかし、尚泰は、清や琉球を植民地と狙う列強諸国の脅威を考えず、日清「両属」の現状維持を要請し清への朝貢を続け、王位を名乗り続けた。

この時期の清は、欧米列強により半植民地の状態であり、日清両属を続けることは、琉球が、香港のような、フランスやアメリカの植民地になる恐れが大であると考えていた。そのため明治政府は、琉球が日本に帰属することを明確にする必要があった。そのため明治政府は当初は琉球に対し慰撫する政策をとった。それは戊辰戦争で新政府に抵抗し、斗南に藩ごと流刑にされた会津藩などと比べれば、全くの特別扱いと言える。

1872年9月、尚泰を藩王に封じ華族に列せられる。
1872年9月、新貨幣並びに紙幣3万円が王に下賜される。
1872年9月、琉球藩の外交権が外務省に移される。
1872年10月、琉球藩の負債20万両を政府が肩代わりする。
1873年7月、琉球藩の明治政府への納付金が減免される。

このような時期に、琉球御用船の船員が、漂着先の台湾で台湾原住民に殺害される事件が起きた。この事件を受け、明治政府は1874年に台湾出兵を行った。これに対し清側は直ちに抗議し撤兵を強く求めた。明治政府は大久保利通を全権として北京に派遣、清と交渉の末、清に対して日本の出兵を「義挙」と認めさせ、50万両の賠償をすることで事件は決着した。これは結果として、琉球が日本に帰属することを清が認めたことになるが、帰属問題の最終的な決着は、日清戦争後になる。

この台湾出兵での決着後も、尚泰は清への朝貢をやめることはなく、明治政府は翌1875年、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明、尚泰はその後も清への朝貢を続けた。このため明治政府はついに1879年、尚泰を東京へ連行し、警察隊や熊本鎮台分遣隊を派遣して首里城に入り、城の明け渡しと廃藩置県を布告した。そして鹿児島県への編入を強行し、同年中に沖縄県を設置した。

しかし王族士族の中には清へ亡命するなど抵抗し、そのため琉球の宗主国としての立場の清は、明治政府に再三抗議し、八重山への出兵も検討された。これはアメリカの仲介もあり、北京で日清間の交渉が行われたが、清は琉球王国の復興をもくろみ結局決裂した。また琉球内では地方役人が反対運動を起こし、沖縄新県政協力者を殺害する事件なども起き制圧されたりもした。

これらの反対運動のため、明治政府は譲歩を余儀なくされ、旧琉球王国の支配階級を懐柔するため、旧支配層に有利な人頭税など、封建性の強い、悪しき旧慣習を温存する政策をとらざるを得なくなり、沖縄の近代化を遅らせることにもつながった。

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