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東北地方は狩猟を中心とした縄文文化圏と考えられているが、ある時期からは、クリの栽培などの農耕生活も営み、その後、稲作も行われていたようだ。その農耕生活の発展の中で、集落が営まれるようになったようだ。これらの東北地方における、縄文文化を担っていた人々を、大和朝廷勢力は、蔑称として「蝦夷」とひとくくりに呼んでいたようだ。

大和朝廷が、それなりに国家体制を整えていく中で、東北地方の蝦夷は、国を持ってはいなかったが、農耕生活の進展のためだろう、小国家ともいうべき、部族単位でのそれぞれの文化圏を持っていたようだ。

これらの部族は、それぞれに影響しあいながらも、独自の宗教観を持ち、独自の文化を築いていたようだ。現在の秋田県鹿角市には大湯環状列石があり、東北地方でも有数の蝦夷勢力の中心地だったのではないかと考えられる。

大和朝廷勢力は、太平洋側に進出していくと同時に、出羽にも進出を始めた。3世紀後期には、安倍比羅夫の祖である大彦命が、崇神天皇の命により四道将軍として出羽に入り、現在の秋田県秋田市の古四王神社の地に、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀ったとされる。

その後、5世紀初期に仁徳天皇の命で、上毛野田道将軍を奥羽に遣わし蝦夷征圧にあたらせた。田道将軍の伝説は、東北地方各所に残り、この鹿角の猿賀神社にも、田道将軍陣没の地として次のような伝説が伝えられる。

田道将軍は、米代川を遡り、古真木の石野に上陸し、鹿角に攻め上った。鹿角の蝦夷達は、丸館の近くの軍森に集まり田道将軍の軍勢を迎え撃った。戦が始まると、初めは戦上手な田道将軍の軍勢が勝り多くの蝦夷が討たれ、その首は蝦夷森に埋められた。しかし兵の数は蝦夷勢の方が多く、将軍は時には大蛇に姿を変えて戦ったが、朝廷軍は次第に押され始め、遂には田道将軍に蝦夷の放った矢があたった。

蝦夷の矢には毒が塗られており、将軍は苦しみながら、「死んでも大蛇になり、毒を吐いて蝦夷のことを亡ぼす」と言い残して死んだ。将軍の亡骸をこの地に埋め、石を置き、後に社を建てて猿賀さまと呼ぶようになった。

ある時、猿賀さまの墓を暴いたものがいたが、本当に大蛇が出てきてその者は大蛇に噛まれて死んだと云う。今もこの地の人達は、泣く子や弱虫の子が居ると、「しょうがんさまに連れて行かれる」「しょうがんさまきた」と言って脅かすと云う。

出羽の蝦夷たちは、大和朝廷勢力の軍事力を跳ね返しながらも、交易などの交流は行われていたようで、次第に中央政府の文化に同化していったように思われる。

6世紀初めの継体天皇の時期に、この地方の長者の娘が、継体天皇の妃になったとする伝説が伝えられている。それは次のようなものである。

昔、出羽国の独鈷村に気立ての良い娘がいた。ある夜、娘の夢に老人が現れ「川上に行けば夫となる男に出合うだろう」と告げる。お告げ通り、娘は川上の小豆沢で一人の男に出合い夫婦となった。

貧しいながら仲睦まじく暮らしていたある年の正月、また老人が夢に現れ「もっと川上に住めば徳のある人になるだろう」と告げた。夫婦は川をさかのぼり、現在の米代川の源流に近い田山村に移り住みよく働いた。

ある日、夫が野良仕事に疲れうとうとしていると、一匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、夫の口に尻尾で2・3度触れた。目を覚ました夫は妻に「不思議なうまい酒を飲んだ」と話し、二人はだんぶりの後を追っていくと、先の岩陰に酒が湧く泉を見つけた。酒は尽きることがなく、飲めばどんな病気も癒された。

夫婦はこの泉で金持ちとなり、多くの人が夫婦の家に集まってきた。人々が朝夕に研ぐ米の汁で川が白くなり、いつしか川は「米代川」と呼ばれるようになった。

夫婦には秀子という一人娘がいた。秀子は優しく美しく成長し、やがて継体天皇に仕え、吉祥姫と呼ばれ妃になった。夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」として人々に慕われた。

年月が過ぎ、夫婦がこの世を去ると、酒泉はただの泉になってしまった。両親の死を悲しんだ吉祥姫は都から戻り、小豆沢の地に社を建てて供養した。この姫も世を去ると、村人達は姫を社の近くに埋葬し、銀杏の木を植えた。

この地の長者伝説は、「養老伝説」に分類されるたわいもないものにも思えるが、その時代背景は継体天皇の時代の古墳時代後期にあたるものだ。公式的な仏教伝来以前の話でありながら、この地方一帯に広がる大日堂の由来にもなっている。また、その時代は、安倍比羅夫の蝦夷制圧の前であり、この地方一帯は、まだ大和朝廷の力が及んでいない蝦夷の文化圏であったはずだ。

大館市から八幡平市にかけての地域のほぼ中心には大湯環状列石があり、かなり古い時期から独自の文化圏を持っていたことは確実である。そう考えれば、「ダンブリ長者」とは、大湯環状列石からつながる、この地域の蝦夷の長であり、その娘が継体天皇の妃となったのは、中央政権が、蝦夷勢力を取り込もうとする証だったのかもしれない。

しかしそれでもこの地には、従来からの文化も継承されており、だんぶり長者のように大和朝廷と同化していく勢力もあれば、同化を拒絶する勢力もあったはずだ。そこに起きたのが、安倍比羅夫の蝦夷征討ということなのだろう。

安倍比羅夫が米代川を遡っての遠征は、出羽内陸部の鹿角や大館地方の蝦夷に対するもので、だんぶり長者伝説からの延長上にあるのではないかと私は思っている。

だんぶり長者伝説は、米代川をさらに遡り源流に到り、奥羽山脈をこえて岩手県八幡平市に到る。この伝説は、大湯の環状列石の文化圏とほぼ重なり、その東端に、アテルイの里と伝えられる、長者屋敷跡とされる地があり、その後の坂上田村麻呂との抗争につながっていく。








この地の長者伝説は、「養老伝説」に分類されるたわいもないものにも思えるが、その時代背景は継体天皇の時代の古墳時代後期にあたるものだ。公式的な仏教伝来以前の話でありながら、この地方一帯に広がる大日堂の由来にもなっている。また、その時代は、安倍比羅夫の蝦夷制圧の前であり、この地方一帯は、まだ大和朝廷の力が及んでいない蝦夷の文化圏であったはずだ。

大館市から八幡平市にかけての地域のほぼ中心には大湯環状列石があり、かなり古い時期から独自の文化圏を持っていたことは確実である。そう考えれば、「ダンブリ長者」とは、大湯環状列石からつながる、この地域の蝦夷の長であり、その娘が継体天皇の妃となったのは、中央政権が、蝦夷勢力を取り込もうとする証だったのかもしれない。

継体天皇の出自は「越国」と関わりがあり、その後、「越」の安倍比羅夫が、秋田の能代から米代川を上り蝦夷を制圧したこととも関わってくるのかもしれない。









大湯環状列石は、縄文時代後期の大型の円形状配石遺跡で、ストーンサークルとも呼ばれている。

遺跡は昭和6年(1931)に発見され、昭和26年(1951)と翌年の昭和27年(1952)に本格的な学術調査が実施された。

この遺跡は、舌状台地の先端部に造られており、河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が、外帯と内帯の二重の同心円状に配置されている。その外輪と内輪の中間帯には、一本の立石を中心に細長い石を放射状に並べ、その外側を川原石で三重四重に囲んでいる。その形から「日時計」ともいわれている。

遺跡は、東西に野中堂遺跡と万座遺跡で構成されており、大きい方の万座遺跡は直径は46mもあり、現在発見されている中では日本で最大のストーンサークルである。組石は万座では48基、野中堂には44基ある。それぞれの組石の下には墓壙があり、共同墓地だったと考えられている。

万座の周辺調査から、掘立柱建物跡群があったことが明らかになり、これらは葬送儀礼に関する施設ではないかと考えられている。また、日時計状組石の中心部から環状列石中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。また、付近の北東方向には黒又山があり、大湯環状列石と関連があるという説もある。

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