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大和朝廷勢力の東北地方の太平洋側への進出は、比較的早く、神亀元年(724)に多賀城の造営で一段落した。しかし日本海側への勢力拡大は、蝦夷の抵抗が大きく、なかなか進まなかった。

大和朝廷は、7世紀半ばから、蝦夷の住む土地に郡を設置して支配版図を拡大する政策をとった。そのために、まずは大化3年(647)に、現在の新潟市に渟足柵(ぬたりのき)を、大化4年(648)には村上市周辺に磐舟柵がおかれ、越後国が成立した。

斉明天皇4年(658)4月から斉明天皇6年(660)5月にかけて、越国の安倍比羅夫は、軍船180隻を率いて北上し、飽田(秋田)・渟代(能代)二郡の蝦夷を降伏させた。降伏した蝦夷の族長・恩荷に小乙上の冠位を与え、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。

現在の秋田市の秋田城址の近くに古四王神社がある。この神社は、3世紀後半、安倍比羅夫の祖である大彦命が、崇神天皇の命により四道将軍としてこの地に到り、北門の鎮護のために武甕槌神を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)として祀ったとされる。

安倍比羅夫がこの地に来た折、祖である大彦命も合祀し、越王(こしおう)神社として創建したという。比羅夫が大彦命に祈りをささげたところ、大亀が現れ、霊泉が湧き出したとも伝えられる。

能代市の七座神社の伝承によれば、安倍比羅夫は軍船で米代川を遡り、二ツ井に到り、船一艘と五色の絹織物を献上し、七座(ななくら)神社を建立し、浦の神を祀ったとされる。また同地の銀杏山神社も比羅夫が建立したもので、戦勝祈願をしたと云う。

この時の阿倍比羅夫の目的は、戦いで征服することが目的ではなく、大和朝廷の武威を見せつけ帰順させることが目的だったと思われる。また、蝦夷も、統制のとれた国家であるわけもなく、集落単位の部族でしかなかったはずで、戦いをする必要は感じなかっただろう。

比羅夫は、津軽と蝦夷地の蝦夷を帰順させ、現在の青森県深浦町の吾妻浜に帰順した蝦夷たちを集め、大饗宴をし禄を与えたという。蝦夷たちは生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上したとされる。

その後、出羽柵が築かれ、大和勢力が植民を進めるにつれて、蝦夷勢力との間で軋轢が強まっていくが、蝦夷勢力には国として共有するものは生まれず、抵抗しながらも次第に同化していくことになる。

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