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出羽で南北朝期の争乱が収まった頃、伊達氏は伊達郡から周囲に領土を拡張していた。そしてそれは大江一族の長井氏が治める置賜郡長井荘に向けられた。

長井氏は鎌倉で関東評定衆の一人として活躍し、長井荘の統治は代官にまかせていた。その間隙をつき、天授6年(1380)、伊達宗遠が侵入し、長井荘を奪取してしまった。

そのような中、室町幕府は、奥羽の支配を鎌倉府に委ね、鎌倉公方足利氏満がその管轄にあたった。応永6年(1399)、鎌倉公方は稲村と篠川に御所を設け、それらを中心に奥羽両国の諸士を掌握しようとし、御所の経済基盤を支えるため、伊達氏に対して、長井氏から奪った置賜郡を差し出すように要求した。しかし、伊達氏はそれに応じなかったため、鎌倉公方は謀叛とみなして武力弾圧にのりだした。伊達氏はこれを不当として幕府に訴え、幕府は伊達氏支持を表明した。

伊達氏をめぐる鎌倉府と幕府の対立で、最上(斯波)氏や白鳥、寒河江、左沢氏らは鎌倉府と奥州両御所の指揮下で行動していた。結果的に、寒河江氏は幕府や伊達氏と敵対することになった。

置賜郡を攻略した伊達氏は周囲に領土を拡張しはじめ、成宗のころになると奥羽最大の豪族に成長し、さらに北進する気配を見せていた。文明11年(1479)から翌年にわたり、伊達成宗は桑折播磨守を大将として寒河江城を攻撃してきた。この「菖蒲沼の戦い」では、寒河江勢は大将の桑折播磨守を打ち取り撃退した。

寒河江を狙っていたのは伊達氏だけではなかった。永正元年(1504)には、山形城主の最上義定が再三にわたり寒河江領に侵攻してきた。その最中に寒河江宗広が死去し、跡をついだのはわずか三歳の孝広であった。幼年の孝広が寒河江氏を継いだことを知るや、義定は三度にわたって寒河江を攻撃してきた。これに対して、寒河江氏一族が結束し、最上勢を撃退した。

しかし、伊達氏は稙宗の時代に入り、その勢力をますます強大なものにしていた。稙宗は最上領に侵攻し、長谷堂で最上軍と戦い、この戦いで最上勢は1千余人が戦死し、長谷堂城は落城した。これ以降最上氏は伊達氏の支配下に甘んじる存在となってしまった。

危機感を抱いた寒河江氏は、最上の諸将らとともに、伊達氏に対して一斉に反旗を翻した。翌年、伊達稙宗は寒河江に軍を進めてきた。稙宗の軍勢は壮々たるもので、戦意を失った寒河江氏は稙宗に謝罪し伊達の軍門に降った。

しかし、天文11年(1542)、伊達稙宗と嫡子晴宗との対立から「天文の乱」が起き、伊達氏は内紛に揺れることになった。最上氏の実質的な家督となった義守は、稙宗方につき、置賜に出兵して長井の全域を制圧するなど、最上氏の勢力拡大につとめた。

最上義守の跡は義光が継いだが、後継争いの際に、自分に反抗した一族、国人衆らを呵責ない態度で討滅していき、一族・家中の統制を果たした。その後、義光は、出羽統一をめざした。同じく出羽統一を目指す庄内の武藤義氏は、幾度となく最上領への侵攻を繰り返していた。

この時期、寒河江氏は、庄内武藤氏と縁戚関係にあった。庄内では最上義光の謀略により、武藤義氏の家臣の前森蔵人が謀叛を起こし、寒河江高基は義氏救援のために庄内へ兵を向けた。しかし、寒河江勢が庄内に到着する前に、武藤義氏が自害に追い込まれ、高基はむなしく兵を引返した。

庄内を掌握し、強大な戦国大名となった最上義光は、その鉾先を寒河江氏に向けてきた。これまでも両者の間には幾度かの小競り合いはあったが、情勢はいままでとは違う様相を呈していた。出羽統一を目指す義光は、寒河江氏や、谷地白鳥氏が支配する最上川西一帯も、最上領国に組み込まなければならなかった。

義光は、まず白鳥十郎を謀殺し、自ら三千の軍勢を率いて谷地城を攻略した。義光は時を移さず、寒河江城攻撃の態勢を整えた。

寒河江勢は、高基の実弟の勘十郎を総大将として、寒河江勢と谷地白鳥の残党を率いて、最上勢に打ちかかった。押され気味となった最上勢はわざと退き、勘十郎を最上陣に誘い込み、伏せておいた鉄砲隊で討ちとった。

最上勢は諸勢を段々に備え、寒河江に討ちいった。総大将を失った寒河江・谷地の連合軍は足並みが乱れ、態勢を立て直す余裕もなく最上勢に降った。

寒河江高基は、勘十郎が敗死したことを知ると、貫見館に落ち延びた。このとき、高基に付き従ったものはわずかな近臣のみだった。貫見館に辿り着いた高基は、御館山に登り、三名の忠臣とともに自害して果てた。ここに鎌倉以来、四百年にわたり寒河江荘を統治してきた寒河江大江氏は滅亡した。

これでとりあえず出羽は、最上義光によって統一されたことになる。

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