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文治5年(1189)の奥州征伐の功により、大江広元は、長井荘ならびに寒河江荘の地頭職に任じられた。

大江氏は平城天皇の皇子阿保親王流とされ、その祖先は土師氏であるとされている。大江氏は平安時代に多くの文人・学者を出した氏族で、菅原氏の「菅家」に対して「江家」と通称され、大江広元も当代の学者として知られた存在だった。広元は、鎌倉幕府初代の政所別当を勤め、「守護・地頭の制」を頼朝に進言するなど鎌倉幕府の基礎を固めた功労者である。

承久3年(1221)、承久の乱が起ったとき、大江広元とその子らは幕府方として活躍した。しかし、京都守護として京都にあった長男の親広は、上皇方に加担し敗れ、寒河江荘に逃れて潜居した。のちに許され、親広は、寒河江に居館を構えて住し、寒河江大江氏の祖となった。

鎌倉中期を過ぎるころになると、執権北条氏得宗家による専制が進み、北条氏勢力と旧来の御家人勢力とが対立するようになり、「宝治合戦」や「霜月騒動」などの争乱が起き、霜月騒動では、大江一族は多大な犠牲を負った。このような情勢のなか、大江元顕をはじめとした大江一族の多くは、寒河江へ下向した。

南北朝時代には、寒河江大江氏は南朝方に属した。北畠顕家は奥州の兵を率いて上洛、大江元政はじめ大江一族はこれに参陣し、南朝勢は足利尊氏を九州へ敗走させた。しかし、その後、体勢を立て直した尊氏は東上の軍を起こし、ふたたび京都を制圧した。

延元元年(1336)、北畠顕家は和泉国堺石津の戦いで戦死、同年、新田義貞も越前国藤島で戦死し、後醍醐天皇も延元4年(1339)吉野で波瀾の生涯を終え、南朝方は圧倒的に優勢な北朝側の軍事力の前に苦戦を強いられることになる。

寒河江の大江元政と一族は、一貫して南朝方として行動していたが、奥州管領斯波家兼は、出羽の南朝方の勢力を駆逐するため、延文元年(1356)、次男兼頼を出羽按察使として山形に入部させた。

兼頼は、山寺根本中堂の再建事業に着手するなど民心掌握につとめ、翌延文2年(1357)には山形城を築き、南朝方の寒河江大江氏は寒河江城を本拠として対峙した。

寒河江城は、最上川と寒河江川に挟まれた河岸段丘上に位置する平城で、単郭の方形館を拡張した輪郭式の城郭である。城の規模は、主郭が東西110m、南北160m、二の郭が東西250m、南北330m、三の郭が東西400m、南北550mほどだったと云う。各郭は土塁と幅10~15mの水堀で区画されていたと考えられる。現在、主郭は寒河江小学校校地となり遺構等は殆ど見られないが、水堀の名残と思われる用水が走り、それに囲まれた主郭跡は一段と高くなっているなど城の名残は残っている。

この城は、鎌倉時代初期、寒河江領主大江親広によって計画され、初めは本郭だけの館城だったが、度々改築を加え、室町時代の初期、八代時氏によって、二の郭、三の郭を持つ寒河江城が完成したと伝えられる。

大江元政は斯波兼頼との戦いの中で討死し、時茂が跡を継ぎ、父の遺志を継ぎ、その後も南朝方として行動した。

正平22年(1367)4月、鎌倉公方足利基氏が、12月には室町幕府二代将軍足利義詮が没した。これに端を発し、翌年7月、越後に潜居していた新田義貞の子の義宗と脇屋義治が挙兵し、出羽の諸氏も関東と連携して挙兵した。寒河江の大江氏もこの地で兵をあげ、翌正平23年(1368)奥州管領大崎直持・羽州管領斯波兼頼らは、これに対して数万の兵を向けた。

斯波勢は、最上川の強固な防衛ラインを避け、迂回して五百川渓谷沿いの諸楯を落とし、富沢口から攻め寄せると見せて別働隊を漆川上流で渡河させ大江軍の後背を突いた。両軍は諏訪原で激突したが、大江勢は背後を取られ、また左沢楯山城への退路も遮断されたことを知ると混乱し、敵主力の中にあった付近の萩袋楯に逃げ込んだ。荻袋楯に籠った大江一族は大軍に包囲され、総大将の溝延茂信をはじめ、その弟左沢元時など、一族の多くが自害した。斯波勢は、漆川の戦勝で目的を達したものとして引き揚げ、大江氏は滅亡だけは逃れることができた。

この合戦から5年後の文中2年(1373)、大江時茂は死に臨み、武家方に和を請い降ることを遺言し没した。時茂の跡を継いだ時氏は、北朝方に和を請い、嫡子元時を鎌倉公方足利氏満に人質として差し出し、鎌倉幕府から本領を安堵された。このとき、時氏は大江姓を寒河江姓に改め、大江氏の名はこの地から消滅した。

大江時氏が北朝方に降り、寒河江氏を称したことで、出羽地方からは南北朝の争乱は終熄し、しばしの平和が訪れた。しかし時代は戦国期に移りつつあり、この地は伊達氏も交えた争乱の地になって行く。

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