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将棋の町で有名な天童市では、例年天童城があった舞鶴山で「人間将棋」が行われる。この舞鶴山には、天から二人の童子が舞い降りたとの伝説が伝えられ、このことから「天童」の地名が起こったとされる。

むかし、舞鶴山の山頂で、行基が一心に念仏を唱えていたところ、山の上に紫色の雲がたなびき、世にも美しい音楽とともに、天から二人の童子が行基の目の前に舞い降りてきた。一人は護衛(ごえい)童子、もう一人は摩竭(まかつ)童子と名乗り、驚く行基にこう言ったという。

「われは、自在天の使者にして、貴僧はこの山頂の大士なり、よろしく一宇を建立し、一切衆生を念仏すべし」。童子はそういい残しどこへともなく消えてしまった。この話を聞いた村人たちは、童子の姿を拝もうと山に登り童子のゆくえをさがしたが、だれ一人見つけることはできなかった。行基は、二人が降り立った霊峰を天童山と名付け、それ以来、天童山の四方の里は天童と呼ばれるようになったという。

その後、行基の弟子の一人が社を建て、二人の童子、すなわち少名彦那命(すくなびこなのみこと)と大己貴命(おおなむちのみこと)を祀り、天童神社とした。

この舞鶴山は、この地の覇権をかけて最上氏と争った天童氏の巨大な城館があったことが広く知られているが、それ以前の南北朝期には、北畠顕家の末子の北畠天童丸が居館を構えたのが初まりといわれている。

出羽は、南北朝期には南朝方が優勢で、特に、隣接する寒河江の大江氏は、有力な南朝勢力だった。また、北畠氏は山寺立石寺の協力も得ていた。天童丸はこ舞鶴山にありこれら南朝方の旗頭的存在だったと思われる。

北畠顕家は奥州の兵を率いて上洛、大江氏はこれに参陣し、南朝勢は足利尊氏を九州へ敗走させた。しかし、その後、体勢を立て直した尊氏は東上の軍を起こし、ふたたび京都を制圧した。

延元元年(1336)には、北畠顕家は和泉国堺石津の戦いで戦死、同年、新田義貞も越前国藤島で戦死し、後醍醐天皇も延元4年(1339)吉野で波瀾の生涯を終え、南朝方は圧倒的に優勢な北朝側の軍事力の前に苦戦を強いられることになる。

それでも、正平6年(1351)11月、北畠顕家の弟の顕信が、北朝方の陸奥探題吉良貞家、貞経父子と天童荒谷で会戦し、これを敗走せしめるなど善戦していた。このため、奥州管領斯波家兼は、出羽の南朝方の勢力を駆逐するため、延文元年(1356)、次男兼頼を出羽按察使として山形に入部させた。

しかし、出羽の民心は北畠氏や大江氏に向いており、新しく出羽按察使となった斯波兼頼を敬うことはなかった。このため兼頼は、この地の信仰の中心になっていた山寺立石寺を懐柔するため、山寺根本中堂の再建事業に着手するなど、民心掌握につとめ、翌延文2年(1357)には山形城を築き、南朝方に対峙した。

正平22年(1367)4月、鎌倉公方足利基氏が、12月には室町幕府二代将軍足利義詮が没した。これに端を発し、翌年7月、越後に潜居していた新田義貞の子の義宗と脇屋義治が挙兵し、出羽の諸氏も関東と連携して挙兵した。寒河江の大江氏もこの地で兵をあげた。

これに対して、翌正平23年(1368)、奥州管領大崎直持・羽州管領斯波兼頼らは、これに対して大軍を発し、大江氏を漆川の戦いで破り、大江氏は壊滅的敗北を喫した。舞鶴山の北畠天童丸は、この大江氏の敗北の後に、この地を去ったものと思われる。

天童丸は、海路、津軽鯵ヶ沢に逃れ、天童山に一旦居を構えたが、その後、津軽の浪岡に入ったと考えられる。

その後、天童には、斯波大崎氏一門に列なる里見氏が本拠地を置き、天童城を改修し天童氏としてこの地を支配することになる。

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