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多賀城址のある多賀城市の北隣に利府町があり、現在の県道8号線沿いに伊豆佐比売神社があり、この地には九門長者屋敷跡とされ、坂上田村麻呂伝説が伝えられている。平安時代の初め頃、奥羽地方でも名高い豪農の九門長者の邸宅があった。その時造られた堀や、長者の井戸が現在も残っている。

長者の家には、多くの召使が雇われていたが、その中に悪玉という誠に醜い女がいた。彼女はもと紀伊の国の斎大納言という公家の姫君で、たいへん美しく頭の良い娘だった。しかし、伊勢参詣の帰り、悪者どもに騙され、この九門長者の召使として売られてきた。

姫は、自分の身を守るため、普通の人には醜女と見え、心清く気高い人には、もとの美しい姫の姿に見えるようにと、守り本尊の観世音菩薩に祈願をしていた。

姫は観世音菩薩の加護もあり、ひどい目にあうこともなく、宮城野を横切り九門長者屋敷まであとわずかの地まで来た。

現在の県道8号線の北側を、東西に平行に走る生活道路は、多賀城に続く東街道、奥大道だった。姫が長者屋敷まで半里ほどの坂を上りきると、そこには鏡のように美しい泉があった。姫はこの池に姿を映し、乱れた髪を洗い、化粧を整えた。泉には、本来の美しい姫が映っていた。その後、誰言うとなく、この坂を化粧坂、泉を鏡ヶ池と呼ぶようになった。

長者屋敷での姫は、朝早くからかいがいしく働いた。しかし醜女にしか見えない姫に注意を払う者はいなかった。あるとき多賀国府に赴任してきた坂上田村麻呂が巡検の際に、長者屋敷に立ち寄った。田村麻呂は姫を一目で見初め、度々長者屋敷に立ち寄るようになった。

屋敷の者たちは、なぜ田村麻呂が醜女の悪玉姫を見初めたのか不思議にしていたが、姫は、田村麻呂が訪れるたびに美しくなっていき、屋敷の者たちを驚かせた。

やがて二人の間には男の子が生まれ、千熊丸と名付けられた。千熊丸は長ずるにつれ、一を聞いて十を知る利発な子に育ち、里人たちは神童と噂した。千熊丸は毎日、学問のために朝早く山道を大菅谷保の佐賀野寺(山の寺の前身)に通った。途中の遙拝坂で日の出に向かい、京の都の父のもとに行けるよう祈願した。

千熊丸は十三才になったとき、母とともに都へ上り、父田村麻呂と親子の対面をし、田村麻呂将軍の跡を継いだという。

この地方には、悪玉姫と田村麻呂の伝説がいくつかあり、また岩手県や福島県にも存在する。基本的には、中央勢力が東北地方に進出する中での、中央と地方の結びつきを強くするために生まれた貴種伝説ということかもしれない。

悪玉姫は、その地によって、阿久玉姫、飽玉姫、あるいは玉姫だったりし、坂上田村麻呂も、その父の苅田麻呂だったりする。坂上田村麻呂は、征夷大将軍として蝦夷征伐を行い、また、薬子の乱でも重要な役割を果たしている歴史上の人物である。しかし母については一切不明であり、妻についても三善清継の娘・高子の名前が伝わるのみで詳細は不明である。

室町時代の京都で成立した御伽草子『田村の草子』では、藤原俊仁が陸奥国田村郷の賤女と契りを交わし、田村麻呂が生まれたとされ、中世の田村氏の出自に関わっている。

この『田村の草子』が、江戸時代の東北地方で演じられた奥浄瑠璃に取り上げられ、悪路王伝説や塩竈神社縁起などが混入され、この地方に広がったものと思われる。

また「悪玉」は、賤民、醜女であったということからのものだろうが、山神信仰との関係から、巫女に通じる「飽」から来ているものとする説もあるようだ。

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