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福島県白河市旗宿の白河関は、いわき市の勿来関、鶴岡市の念珠ヶ関とともに、奥羽三関と称される古代関で、白河の関は、古くより陸奥への関門として歴史にその名を残しているだけではなく、歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所で、西行や宗祇など、有名な文化人がこの地を訪れている。

前九年、後三年の役で知られる源頼義、義家父子はこの地から奥羽に入り、金売り吉次とともに平泉に向かう源義経もこの地から陸奥に入り、また義経は治承4年(1180)、頼朝の挙兵に駆けつける際にもこの地を通った。

後三年の役の後、みちのくの地は、平泉の藤原氏の下で、中央の政治とは一線を画し、その結果、源平の争いにも巻き込まれないでいた。しかしそれでも、平泉の藤原秀衡は、歴史の動きを察知し、源義経を匿ったのだろう。

そして源頼朝は挙兵し、義経は兄頼朝のもとに駆けつけることになる。この時期の藤原秀衡は、後三年の役の時の源義家との縁もあり、源氏勢力とは共存共栄できるものと考えていたと思われ、義経には佐藤嗣信、忠信兄弟をはじめ数十騎をつけて送り出した。 

義経主従は、頼朝のもとに向かうにあたり、白河の関の1里ほど手前の関山を参詣したようだ。関山は、この地有数の霊場で、天平2年(730)に行基が満願寺を開山したときに始まる。その当時の関山には、山麓から山門や伽藍が山頂まで続いていた。この関山満願寺には、聖武天皇の勅願によって、行基が光明皇后の守本尊の正観世音菩薩を奉持し、満願寺を創立したという。義経は、関山を参詣し、戦勝を願い神馬を奉納した。

当時、現在の福島県の地は、福島市飯坂の大鳥城を拠点とし、佐藤嗣信、忠信兄弟の父親の佐藤基治が治めていた。基治は、義経と嗣信、忠信の二人のわが子を見送りに、この白河の関まで出向いたようだ。

別れにあたり基治は、継信、忠信に対し「汝ら忠義の士たらば、この桜の杖が生づくであろう」と諭し、携えていた一本の桜の枝をこの地に突き立てた。この後、継信は屋島の戦いで義経の身代わりになって矢を受け討ち死にし、忠信は、源頼朝に追われ吉野に逃れた義経を逃すために、単身京の義経の館に戻り、鎌倉軍と戦い自害した。

桜はその忠節に感じてか活着し繁茂したという。後の天保年間(1830~44)、野火によって消失した後も、新しい芽が次々と出て、美しい花を咲かせるという。

義経主従は、白河の関に入り、ここで源氏の白旗を立てた。

この白河の関は、大化の改新以後7、8世紀頃には存在していたものと考えられる。この関が初めて設けられた当時、この地は大和朝廷の勢力範囲の北限だったとおもわれ、蝦夷にたいする前進基地という目的で設置されたと考えられる。

関跡に残る空堀、木柵跡、などの遺構は、この関が人々の往来や敵の侵入を制限するという、本来の関としての役割よりも、軍事集団の拠点という性格だったのではないかとも思われる。

その後、大和朝廷はさらに北進し、宮城県の多賀城がその前進基地となったあとも、白河関は後方基地の役割を果たしていたようだ。廃絶の時期も明確ではないが、軍事的な役割を終えた時期、奥州藤原氏が滅亡してしばらくの後の12、13世紀頃と考えられる。

その後、関の位置も定かではなくなり、江戸期の白河藩主松平定信がもろもろの調査の結果をもとに現在史跡として定められている旗宿の地と推定し、碑を建立した。

義経主従は、白旗を掲げ、この地から関東に入り頼朝に謁見し、壇ノ浦の戦いなどに功を上げたが、凱旋将軍としてこの関を通ることはなかった。しかし、文治5年(1189)、源頼朝率いる鎌倉勢がこの関を通り奥州征伐のため平泉へ向かった。