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山形県山辺町の玉虫沼は、現在は農村公園として、湖畔にはキャンプ場やテニスコートなどが整備され、ヘラブナ釣りのスポットとしても賑わっている。またこの沼に伝えられる伝説から、一部では心霊スポットとしても人気があるらしい。

小百合の花が一面に咲き、沼が美しく色どられる農繁期になると、山野辺城主の山野辺義忠は、農民達の慰労のために領内を巡視するのが習わしだった。

ある日のこと、領内巡視の折に、大蕨の庄屋宅に立ち寄り休息したところ、給仕に出た娘は大変美しく、その坐作進退はしとやかで、たちまち殿様の目にとまった。娘の名は「お玉」といい、殿様は大変気に入り、庄屋に城中に召出すようにと言いおき帰城した。

それから間もなく、お玉は侍女「玉虫」という名で山野辺城の奥勤めをすることになった。城中での玉虫は、殿様からも奥方からも非常に気に入られ、御膳部役という大役を仰せつかった。玉虫は、この大役を果たすために神前に祈願し、その満願の日に蛇を一匹授かり、この蛇を使うと飯がうまく炊けると告げられた。

玉虫のたいたご飯は大変おいしく、殿様もたいそう気に入っていた。また玉虫の美貌は、お城勤めの若侍の間に、誰が彼女を射とめるだろうかなどと、評判になっていた。しかし、他の侍女達の妬みを買い、いつしか「玉虫は殿様に蛇飯を食べさせている」、と悪意に満ちた噂が立ち始めた。

それとは知らない玉虫は、毎朝早くから、飯炊きに、掃除にとかいがいしく働いていた。奥方はこのような玉虫を見て、あらぬ噂を晴らしてやろうと、こっそり厨にしのび、彼女が炊いておいた飯釜の蓋を開けてみた。するとそこには、白い飯の上に蛇がとぐろを巻いたまま湯気を立てていた。その夜、玉虫の姿は城中から消え、翌日、沼に浮いていた玉虫が見つかった。

それ以来この沼は玉虫沼と呼ばれるようになったが、沼は何時行ってみても、水面が清らかに輝いている。これは、玉虫が毎朝早く掃除をするからだと村人達は噂するようになった。5月の玉虫明神の縁日に、東の空がほのぼのと白むころに行って見ると、玉虫が御殿勤めのときの美しい着物を着て、箒で水面を掃いている姿を見ることが出来ると伝えられ、これを見た人は一生幸運に恵まれると云われている。

この沼は、室町時代後期にこの地域を領していた武田信玄と同族の武田信安が、この地の灌漑のためにつくった人造湖である。この地には、この伝説とほぼ同様の、古い時期の伝説が伝えられ、ここでの伝説は、その焼き直したものと思われる。

古い伝説では、玉虫は京から父を探してこの地に到り、この地の城の殿様にも気に入られたが、同僚の妬みなどで、失意の中でこの沼の中に父の姿を見つけ、入水してはかなくなった、となっている。

武田信安は、最上家(斯波家)がかつて、武田家と共に足利幕府で要職だった誼を頼り、出羽の地に下向した。宝徳元年(1449)、最上義春に川西に封じられ高楯城主となった。この年代が正しければ、当時の将軍は六代足利義教で、赤松氏によって暗殺されており、応仁の乱前夜ともいえる時代だった。武田信安は、これらの権力争いに嫌気がさしたものと思われる。

寛正元年(1460)、幕府と古河公方の対立が続き、足利幕府は古河公方討伐を関東、奥羽の諸将に命じた。山形最上氏は出羽の豪族に動員令を出し、信安はこれに応じて出陣した。このときの葦名戦争では利あらず多くの家臣を失い、戦後、世の無常を悟り仏門に帰依したという。信安は、後にこの地に草庵を営み、81歳で没したという。

この玉虫沼の伝説に、なんらかの史実が関わっているとすれば、京の都からこの地に下った武田信安の周囲の女性に関わるものとも考えられる。

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