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東日本大震災から丸9年が経過した。毎年この時期は、復興の状況を見ながら慰霊の旅を行っている。先日、これまで帰還困難地域として立ち入れなかった、福島県双葉町の一部が今年は指定が解除されたということで、これまで立ち入ることもできなかった、原発被害の町の福島県双葉町と大熊町に日帰りで行くことにした。
深夜に仙台を発ち、国道4号線から6号線へ入り80kmほどの夜道をのんびり走り、南相馬の道の駅で仮眠した。とりあえずこの地での最初の地として、相馬氏の墓所がある同慶寺に向かった。
同慶寺までの途中、除染時に発生した汚染土が保管されている仮置場があった。仮置場は、この地域では至る所で見られる。ただ、この施設にある、黒い巨大な土嚢袋は明らかに減っているようで、それなりに処理が進んでいるようだ。もちろん処理といっても、放射性物質の線量を化学的になくすことなどはできず、低濃度のものは、土木用などとしてリサイクルしているのだろう。
小高の同慶寺に着くと、本堂の修築中だった。小高は戦国期を通じての相馬氏の拠点の地だった。相馬氏は南相馬市の小高城を中心に、現在の大熊町、双葉町、から相馬市までの領域を統一したが、その領域のほとんどが、原発被害にあった。全国的に有名な相馬野馬追も、小高の地が中心だ。ある意味では、原発被害のこの地域一帯の復興は、相馬氏に連なるプライドから始まるのではと考えていた。
2011年の大震災による原発事故で、南相馬市は、警戒区域、緊急時避難準備区域が設定され、市が三分され、この地から離れた者も多かった中で、規模を縮小したものの例年通り7月に実施した。避難しこの地から離れ遠隔地に住んでいる方々も、甲冑を身に着け駆けつけるようになった。それらの心の中心が、相馬氏の廟所にあると考えていた。
廟所はきれいに整備されていた。大震災では恐らく墓所の五輪塔などは傾き崩れたはずだ。しかし墓所内の五輪塔、墓碑などは、大震災などなかったかのように整然と並んでいた。
同慶寺からまっすぐに、双葉町役場に向かった。双葉町は数日前から町の一部が帰還困難地域指定が解除され、町に入れる状態になっているはずだった。役場にどなたかいらっしゃれば話を伺えるかもしれないと思っていた。しかし役場はあの日からそのまま時間が止まったままだった。そのまま町の中に入っていった。かつて町の入り口には、誇らしげに「原発の町」のゲートがあったが今はない。町の中に入っていくと、人の生活の動きはまったくない。震災直後の崩壊した町がそのままあった。人々は震災後の原発爆発の恐怖の混乱の中、この町を逃れ、未だに戻れていないのだ。
復興の兆しでも見つけなければこの町を離れられない思いで、明後日に全線開通する常磐線の双葉駅に向かった。駅舎は新しくなっており、明後日は祝賀式典などで賑わうかもしれない。もちろんそれはうれしいことだが、この新しくなった駅に降り立つ人がいるのだろうか。気持ちは沈んだままで、大熊町に向かった。
大熊町は未だ期間困難地域のままで、町そのものが封鎖されている。さほど広くもない国道6号線沿いの家々は、すべてバリケードが張られており、人影はまるでない。もちろん国道6号線から町の中に入る道路も全て封鎖されている。大熊町には、標葉氏の館跡もあったはずだ。小夜姫の伝説を伝える泉もあったはずだ。しかし、現在の大熊町は、国道6号線沿いのバリケードで封鎖された家々だけだ。
このままでは帰れない。そのまま南下し富岡町に向かった。富岡町は大熊町や双葉町に先駆けて、期間困難地域指定が解除され、昨年の3月に訪れたときには、道路にはぺんぺん草が生え、商店街の多くの家々は崩れたままだったが、それでも、古い商店の修繕が始まっており、また解体されたのだろう更地に、新たに建物の建築が始まっていた。行ってみると古い大正時代の建物らしい商店の修理が完成したばかりのようで、ようやく復興の兆しを見つけることができた。中の方に話を伺うと、この町の復興のシンボルとして、町のコミュニティの場として、カフェと簡易図書館が運営されるということだった。
少し気持ちが明るくなり、教えていただいた慰霊碑で手を合わせ、新しくなった常磐線富岡駅に向かった。駅では明後日の常磐線の全線開通に備えそれなりの人の動きがある。中でも来訪者に備えて、町巡りマップなども作られていたことは大変うれしかった。
そのマップに「ロウソク岩跡」があった。震災前に偶然に見つけた堂々たる立岩だった。震災でどうなったのか気になっていたのだが、これまで立ち入ることはできずに気になっていたが、「跡」とあるのは、大津波で崩れてしまったということだろう。いただいたマップを頼りに、すっかり変わってしまった道を走った。
迷いながらもたどり着き、急崖の下に回り込むと、ロウソク岩は、下3分の1ほどで折れ、岬の先端にあったアーチも崩れていた。しかし折れたロウソク岩は、私には仏の座った姿にも見えた。
この地の津波による犠牲者は、他の地域に比べて多くはない。しかし、原発の爆発による混乱の中で、住民は緊急避難を余儀なくされ、十分な救助活動は行えなかったようだ。そのため犠牲者率は高く、恐らくは無念の中で亡くなった方もいただろう。ロウソク岩跡に残った仏の座像に手を合わせた。
慰霊の旅で、その目的がロウソク岩跡で少し果たせた気持ちになり、帰途につくことにした。その帰り道で、この地に桜の名所の夜の森に寄ることにした。夜の森公園は、未だ帰還困難区域で立ち入りができないが、公園の入り口までは行けるようだ。
もちろんこの地では桜の開花にはまだ早いが、満開時には桜のトンネルになるだろう道路を通って、公園の入り口まで行った。道路の公園側は厳重にバリケードが張られている。住民はまだ誰も戻ってはいないようだ。それでもこの地の桜は、これまでの9年間、愛でる人々を待ちながら花を咲かせ続けてきたのだろう。つぼみはまだ固いようだが、この通りには何らかの華やかさが感じられた。
公園の入り口には、この地の開花基準木があり、そのわきに放射線量測定器があり、まだ線量は高いようだった。