イザベラは、日光に入り、外人向きの宿があることを知り、その金谷さん宅に逗留することになった。部屋は美しく、ここまでの宿での、他の客の目や夜の騒音に悩まされることもなく、日光東照宮を心行くまで歩き回ることになった。
イザベラは青銅の灯籠や青銅の鐘が並ぶ参道を、何度も往復し、陽明門では麒麟や龍の彫り物にため息し、牡丹や七賢人などの彫り物を好奇心に任せて子細に眺めたようだ。それは「旅行家」というよりも、「研究家」のもののようで、西洋とは違う日本の美を極めようとするかのようだった。陽明門を抜けて拝殿前の最後の中庭に出たときには、探勝する能力も尽き果てて、ほっとするほどだったと記している。
イザベラは、拝殿の外の丘の頂上の家康の墓にも好奇心を向けている。家康の墓は、黄金や彩色に彩られた仙境の奥の雄大な自然の中にあった。墓は巨大な石と青銅で作られており、その一角は花も咲かず鳥も鳴かず、巨大な杉の大木を背景として、日の光が斜めにさすだけの静けさの中にあった。イザベラはその中で、日本で最も有能で偉大な人物に対する、多くの者の悲しみと敬意を感じたようだ。
第九信
日光山、湯元、屋島屋
【馬上旅行】
今日私は実験的に馬上旅行をしてみた。続けて乗って 8時間で15マイルであった。
(中略)
私は石垣の上から、荷物を積んだ私の馬の上に飛び乗った。鞍の背や横木、金具、こぶのある索具などは、畳んだ布団で座りやすくなっていた。その結果、馬の背より十四インチ高いところに座ることになり、私の足は馬の顎のところから下に下げた。体のバランスを良くとらないと、身体をまっすぐに立てることができなくなる。しかし、バランスをとるのもやがて慣れてくる。もし馬が躓かないならば、平らな地面ならば我慢できる。しかし坂を登るときには、背骨にひどくこたえる。坂を下るときには、とても我慢できぬほどで、私が馬の顎から滑り落ちて、泥の中に飛び込んだ時、実はほっとしたほどである。たとえ手綱があっても、馬は手綱を知らないから役に立たない。馬は六フィート前をとぼとぼ歩く馬子の綱についてくだけである。
【美しい宿と湯の町】
つらい一日の旅行が終わって美しい宿屋についた。この宿屋は内も外も美しい。旅行で汚れた人間よりも、美しい妖精が止まるにふさわしい。襖はなめらかに削った軽い板でいい香りがする。畳はほとんど真っ白で、縁側は光沢のある松材である。少女が部屋にはいってきて、微笑しながらお茶を持ってきた。すももの花が入ったお茶で、アーモンドのようないい香りがした。お菓子は、豆と砂糖から作ったものであった。茶碗は雪のように白かった。かなり古い鶏の肉の料理をようやく食べてから、戸外で夕方をすごした。日本の湯治場は私にとって目新しいものだからである。
この美しい村は湖と山の間に挟まれて、ほとんど余地がないほどである。ここはこぎれいな家が次々と上下に続き、削ったばかりの赤みがかった杉材で、作られている。ここでは冬に、十フィートも雪が積もり、十月十日になると、人々はその美しい家を荒いむしろで包む。そして屋根までも包んでしまう。それから五月十日まで低い地方に下りている。留守番を一人残す。彼は週に一度交代となる。この家が私のものであったら、雨の日にはいつも家をしっかりと包んでしまいたくなるであろう。ここまで馬に乗ってきたのは全くの間違いであった。駕篭(覆いのある籠)に乗ってくるのがよい。
【湯治場】
村は二つの短い街路から成り立つ。八フィート幅で、いろいろな程度の宿屋ばかりで、深い軒下の美しい正面があり、優美な縁側や提灯が並び、低い玄関が開いている。ここは人がいっぱいで、四つの浴場は人ごみであった。元気の良い病人は、日に十二回も入湯する。歩いている人はみな腕に青い手拭いを持っている。縁側の手すりには、青い手拭いが乾かすためにぎっしりかけてある。ここには、娯楽はほとんどありそうもない。山は村のすぐはずれからそびえ立ち、深い草木で覆われているから、人々は短い町通りを歩くか、私がやってきた街道沿いに歩くしかない。湖には屋形船が一隻あり、数人の芸者が三味線を弾いていた。しかしかけ事は禁止されているから、浴場以外に人々の出かけるところはない。だから湯に入り、眠りたばこを吸い、食べることでほとんど一日を過ごす。湯の出るところは村の先で、塚の中の、四角な槽の中である。非常に勢いよく沸騰し、悪臭の煙を出している。それには所々に広い板が渡してあり、リウマチに悩む人々は、何時間もその上に横になり、硫黄の蒸気を体に充てる。この湯の温度は華氏百三十度であるが、湯が村まで、ふたのない、木の樋に沿ってゆくと、ただの八十四度となる。湯元は四千フィート以上の高さにあり非常に寒い。
(後略)
第十信
日光、入町
(前略)
【子供と学校教育】
入町村は、今の私にとっては、日本の村の生活を要約しているのだが、約300戸からなり、三つの道路に沿って家が建てられている。道路には、四段や三段の階段が所々に設けてある。そのそれぞれの真ん中の下に、速い流れが石の水路を通って走っている。これが子供たち、特に男の子たちに、限りない楽しみを与えている。彼らは多くの巧妙な模型や機械玩具を案出して、水車でそれらを走らせる。しかし午前七時に太鼓が鳴って、子供たちを学校に呼び出す。学校の建物は、故国(英国)の教育委員会を辱しめないほどのものである。これはあまりに洋式化していると私には思われた。子供たちは日本式に座らないで、机の前の高い腰掛けに腰をおろしているので、とても居心地が悪そうであった。学校の器具はたいそう良い。壁には立派な地図がかけてある。先生は二十五歳ばかりの男で、黒板を自由自在に使用しながら、非常に素早く生徒たちに質問していた。英国の場合と同じように、最良の答えを出したものがクラスの首席となる。従順は日本の社会秩序の基礎である。子供たちは家庭において、黙って従うことに慣れているから、教師は苦労しないで、生徒を、静かに、よく聞く、おとなしい子にしておくことができる。教科書をじっと見つめている生徒たちの古風な顔には、痛々しいほどの熱心さがある。
(中略)
【五十音】
子供たちはある歌の文句を暗唱したが、それは五十音のすべてを入れたものであることが分かった。それは次のように訳される。
色や香りは消え去ってしまう。この世で長く続くものは何があろうか。
今日という日は、無の深い淵の中に消える。
それはつかの間の夢の姿に過ぎない。
そしてほんの少しの悩みを作るだけだ。
これはあの疲れた好色家の「空の空なるかな、すべて空なり」という呼び声と同趣旨のものであり、東洋独自の人生嫌悪を示す。しかし幼い子供たちに覚え込ませるのには憂うつな歌である。中国の古典は、昔の日本教育の基本であったが、今では主として漢字の知識を伝達する手段として教えられている。それを適度に覚え込むために、子供たちは多くの無駄な労力を費やすのである。
(中略)
【学校外での子供】
子供たちは家へ帰ると食事をする。夕方になると、ほとんどどの家からも、予習をして本を読んでいる単調な声が聞こえてくる。食事が終ると彼らは解放されて遊びに出る。しかし女の子は赤ん坊を背に負って、人形を抱きながら、午後いっぱい家のあたりをぶらぶらしていることが多い。ある夕方のこと、私は六十人の少年少女の行列にあった。みんな黒い玉のついた白い旗を持っていた。先頭のものだけは金の玉のついた白い旗を持っていた。彼らは歩きながら歌っていた。というよりもむしろどなっていた。しかしほかの遊びは座ってする遊びてあった。水流の水車で動かす機械玩具は最も魅力がある。
【子供のパーティー】
公式の子供のパーティーがこの家で開かれた。そのため、十二歳の少女である子供の名前で、正式な招待状が出された。午後三時に客が到着する。しばしば召し使いがお供をしてくる。春という名のこの子は、石段の上でお客を迎える。
(中略)
お客が全部集まると、彼女と非常に優雅な母は、一人一人の前に坐りながら、漆器のお盆にのせたお茶と菓子を出した。子供たちは暗くなるまで、非常に静かで礼儀正しい遊戯をして遊んだ。彼らはお互いの名を呼ぶ時に「お」という敬語をつけて呼ぶ。これは女子の場合だけである。それから語尾に「さん」という敬意を示す言葉を添える。それで春は「オハルサン」となる。これは英語のミスに相当する。
(中略)
【女の子の遊び】
子供の遊戯の一つは非常に面白いもので、元気よく、しかも非常に勿体ぶって行われる。それは一人の子供が病気のまねをし、他の子供が医者のまねをするのである。医者のように気取って重々しく、病人のように弱々しく、さも困っている様子は、まことにうまく真似したものであった。不幸にも医者は患者を死なしてしまう。患者は青白い顔をして、うまく死んだように眠ったふりをする。それから嘆き悲しみ葬式となる。こんなふうにして、結婚式や宴会その他多くの行事を芝居にする。この子供たちの威厳と沈着ぶりは驚くべきものである。事実は、やっと喋りはじめるころから、日本礼法の手ほどきを受けるのである。だから十歳になる時までには、あらゆる場合に応じて何をしたらよいか、何をしてはいけないのか正確に知っている。子供たちが去る前に、再びお茶と菓子が出された。それを受取らないのは礼法に反するし、またいったん受け取ったものを残してゆくのも礼法に合わないので、何人かの幼い令嬢たちは、残り物を自分の広い袖の中へそっと入れた。別れを告げる時は、到着したときと同じように、儀礼的なあいさつが交わされた。
【女性の一日の生活】
春の母の雪は、魅力的なほど優美に話し、行動し、動き回る。夜とかよくあることだが、友人が午後のお茶に立ち寄るとかする場合を除いては、彼女はいつも家庭の仕事をしている。掃除、縫い物、料理、畑に野菜を植えたり雑草をとったりする。日本の女子は、すべて自分の着物をぬったり作ったりする方法を覚える。しかし私たち英国婦人にとって、縫い物の勉強は難しくてわからぬことがあって、恐怖の種とされているのだが、日本の場合にはそれがない。着物、羽織、帯、あるいは長い袖さえも、平行する縫い目があるだけである。これらは仮縫いにしてあるだけで、衣服は、洗う時にはばらばらにほどいて、ほんの少しノリで固くしてから、板の上にのばして乾かすのである。バンド、ヘリ飾り、衽、ボタン穴などが付いている下着はない。貧乏な家庭の女性はなにもつけないが、貧乏でない家庭では、雪のように、上に着るものと同じように、簡素につくられた泡模様の縮緬の下着をつけている。たいていの村の場合と同様に、ここにも貸し出し図書館がある。晩になると、雪も春も、恋愛小説や昔の英雄女傑の物語を読む。これらは大衆の嗜好に合うように書かれており、最も読みやすい文体でつづられている。伊藤は十冊ほど、小説を自分の部屋にもっていて、それらを読みながら夜の大半を過ごす。
(中略)
【生け花】
生け花の技術は、手引き書によって教えられる。生け花の勉強は、女子教育の一部分となっている。私の部屋が、新しい花で飾られない日はないほどである。それは、私にとって一つの教育となった。飾られている花の孤独な美しさが、私はわかりかけている。床の間には、きわめて美しい掛け物がかかっている。桜の花一輪である。襖の羽目板には、一輪のアヤメがある。光沢のある柱に優美にかけてある花瓶には、一本のボタン、一本のアヤメ、一本のツツジが、茎や葉や花冠とともにそれぞれ挿してある。それに比べれば、私たちの花屋さんの花束ほど奇怪で野蛮なものがあるだろうか。あれは、種々の色の花を、一束の花輪にまとめたもので、シダ類で囲み、レース紙で包んである。中の花は、茎も葉も花びらさえも、ひどくつぶされている。それぞれの花の優美さも個性も、故意に破壊されている。
(後略)