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羽川新館は韮山館とも称され、由利十二頭の一人とされる羽川氏の居城である。秋田県秋田市の、羽川氏の菩提寺である朱林寺の南東400mほどの比高約70mの丘陵上にあり、郭は南北に長く配され、大きく北郭、本郭、南郭に分けられる。北側が大手口と思われ、北郭には城塁が見られ、また竪堀が残っている。本郭は長軸約60mほどで、西側に土塁が残っている。また奥には南郭が配され空堀で区画されている。この城は韮山館とも呼ばれ、義稙が敵が滑りやすいように、土塁にニラを植えたためと伝えられる。

この地から、にかほ市、由利本荘市にかけての一帯は由利地方と呼ばれ、平泉の郎党の由利氏が支配しており、奥州藤原氏滅亡後も本領を安堵されていたが、由利維平の子の維久は、和田合戦に連座し所領を没収され、子孫は土着し、滝沢氏と称した。その後、地頭職は源実朝の養育係である大弐局に移り、更にその甥大井朝光に譲られたとされる。

この由利地方は奥州藤原氏が滅亡後、大河兼任の乱が勃発した地であり、鎌倉勢力が及びにくい地でもあった。「十二頭記」には、「正平以後、由利主宰なきこと数十歳、隣寇侵略、盗賊縦横、土人これに苦む、応仁元年鎌倉に訴え、地頭を置んと請う」とある。

その後、由利地方には信濃小笠原氏一族が入り、大井氏と結びつきながら勢力を拡大した。また南北朝期には楠木氏や新田氏の流れとする勢力も入り込み、諸勢力入り乱れて合従連衡を繰り返し、結局、大勢力は生まれなかった。

羽川氏は新田義貞の系譜にみられる羽川修理太夫の子孫とされ、応永年間(1394~1428)の頃、越後から由利郡に流れついたと伝えられる。羽川氏の周囲は、安東氏、小野寺氏、戸沢氏などの大勢力に囲まれていた。

羽川氏は清和源氏の血統という自負からか、所領以上の家臣を入れ、周辺の他国領に攻め入った。自ずからを主流とする強烈な自負心からか、周辺勢力は皆「悪賊」とし、周辺の他国領に積極的に攻めこんだ。しかしそう簡単に所領が拡大するわけもなく、多くの家臣団を養うために、略奪を放任し、一般の住民や旅人からまで略奪を行い、野盗、盗賊と変わることはなかった。

羽川義稙の代の天正13年(1586)、羽川氏の領内に、前田利家に敗れた能登の畠山氏の一族が漂着した。義稙はこれを助け家臣とし、勢力を拡大しますます略奪に精を出した。天正16年(1589)、小野寺氏の所領を襲った際に、小野寺氏を「悪賊」として、小野寺領の神宮寺八幡宮に「悪賊州県を討つ」との願文を奉納した。これは「凶徒が多くあり、自らの所領を増やすことばかりで、清和源氏の血統の自分が、これらの悪族をみな討伐する」というもので、小野寺義道を激怒させた。この年の安東氏と小野寺氏との合戦では、義稙は安東氏に味方して、70人の兵を率い小野寺氏の陣に夜襲を仕掛け、陣屋をさんざんに焼き払い勇名を馳せた。

この時期、由利十二頭は、安東氏や小野寺氏、戸沢氏らとそれぞれに結び付き離合集散を繰り返し、その中で勢力を維持、拡大していた。安東氏の内紛である湊合戦の際には、義稙は安東実季につき、豊島重氏を討ち豊島城主となり、さらに戸沢氏領の大曲を狙っていた。

その義稙に、同じ由利十二頭の赤尾津九郎が計略をもって近づき、戸沢氏は稗沢勢の侵攻に兵力を集中させており、大曲の守りは全く手薄になっていると耳打ちした。これを聞いた義稙は、さっそく1000人ほどを率いて大曲に押し寄せたが、戸沢氏は羽川勢を迎え撃つ準備を整えており、楢岡においてさんざんに打ち破った。

またそれと同時に、赤尾津九郎は2000の兵で、わずかな留守兵だけの羽川氏の本拠城の羽川新館に攻め寄せ、城はあっという間に落城した。羽川勢は戦に敗れ、帰る城も失い、山野に潜伏して雪辱を期したが、悪名高い義稙に手を差し伸べるものはなく、一族の多くは帰農したという。義稙は仙北まで放浪し、浪々中に没したという。

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