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文治5年(1189)7月、源頼朝は平泉に対して軍を発した。畠山重忠を先陣とした頼朝率いる大手軍は、同月29日に白河関を越え、さしたる抵抗も受けずに奥州南部を進み、8月7日には伊達郡国見に達した。平泉勢は国見の阿津賀志山を決戦の地として、長大な防塁を築き、17万の平泉軍を動員しこれに備えた。

この阿津賀志山の地の南西約10kmの地に、信夫庄司佐藤基治の大鳥城があり、平泉勢力下で、現在の福島県一円を支配していた。定説では、この佐藤基治は、阿津賀志山の陣には入らず、前衛として石名坂に陣を敷き、鎌倉勢と戦ったとされている。しかし、佐藤基治は、なぜ阿津賀志山に入らなかったのか、なぜ堅固な山城の大鳥城を捨てて石名坂に向かったのか、その後の佐藤一族の去就も含めて謎は多く、ここではその歴史の迷宮に分け入ってみる。

佐藤氏は、鎮守府将軍藤原秀郷の流れとされ、基治は、平泉の藤原秀衡のいとこに当たる乙和姫を後室に迎え、奥州藤原氏と強固な関係を結んだ。乙和姫との間に、継信、忠信、藤の江、浪の江などの子があったが、佐藤継信、忠信兄弟は源義経に従い、それぞれ壇ノ浦で、また京都で討ち死にする。また藤の江は、秀衡の三男忠衡に嫁いでいる。

源義経の活躍もあり、平家は壇ノ浦で滅亡したが、義経は鎌倉の兄の頼朝と不和になり追討を受けて、義経主従は平泉に落ち延びた。平泉の藤原秀衡は、平家と戦いを勝ち抜いてきた義経の武将としての資質を高く買い、鎌倉勢との戦いに備え、泰衡ら子供たちに、義経に平泉軍の指揮を執らせるように言い残し没した。

秀衡の没後、源頼朝は義経を鎌倉に引き渡すように圧力をかけ、秀衡の跡を継いだ泰衡はこの圧力に抗しきれず、「義経の指図を仰げ」という父秀衡の遺言を破り、文治5年(1189)閏4月、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を衣川館に襲い、義経は自害した。 また秀衡三男の忠衡は、父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張しており、泰衡は同年6月、五弟の通衡とともに誅殺した。

もちろん頼朝の目的は義経を除くことではなく、背後を脅かす奥州藤原氏の殲滅であり、義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして、泰衡追討の宣旨を得て、全国に動員令を発した。源頼朝は文治5年(1189)7月、28万の軍を率いて奥州に攻め込んだ。対する藤原泰衡は、17万の奥州軍を動員しこれに備えた。

泰衡は、東山道を北上する鎌倉軍を迎え撃つため、伊達郡と刈田郡との境にある阿津賀志山一帯の東山道沿いに、堅固な防塁と砦群を配した阿津賀志楯を築き、異母兄の藤原国衡を大将軍とし、侍大将金剛別当秀綱以下の精兵2万騎を配してこれに備えた。頼朝本隊は、7月29日に白河関を越え、8月7日に福島県国見町の藤田城を本陣として布陣し、阿津賀志山に陣取る藤原国衡と対した。

しかし、信夫の庄司の佐藤基治は、阿津賀志山に参陣することはなく、独自に大鳥城を出て、8月8日、福島市南部の石名坂に陣を敷いた。頼朝は、後に伊達氏の始祖となった常陸入道念西を向かわせた。念西は、子の常陸冠者為宗・二郎為重・三郎資綱・四郎為家らは、秋風茂る草原の中を潜行し、佐藤基治らに矢石を浴せ、死闘がくり返された。佐藤基治勢は坂を駆け下り勇戦し、常陸念西勢は為重・資綱・為家らは手傷を負ったが、長男為宗の奮闘によりついに基治勢を破り、基治以下18人の首をとったとされる。

この石名坂の戦場の地については特定されておらず、かつての石名坂村の地の平石地区がその一つとして比定されている。伝承によれば、佐藤基治は大鳥城を出て、飯坂の十綱の橋を切り落とし、戻らぬ覚悟で出陣したようだ。

ここでの謎は、なぜ佐藤基治は、堅城の大鳥城を出て、阿津賀志山の平泉勢と別行動を採ったのかということだ。比定地の平石の地は、北側に平泉勢を臨み国見を本陣とした鎌倉勢の南側になり、鎌倉勢を南北から挟撃できる位置になる。しかし、基治勢は、恐らくは数百の兵数だったと考えられ、無謀といえるものだ。阿津賀志山の藤原国衡からは、何度となく阿津賀志山に入ることを促されたはずだ。

佐藤基治にとっての主君は亡くなった藤原秀衡だった。また、平氏との戦いに出る前の、平泉時代の義経の妻は基治の娘の浪の戸だったとされる。秀衡の跡を継いだ泰衡は、父秀衡の、義経を大将軍として鎌倉に対するようにという遺言を破り、義経を誅殺し、娘婿である忠衡をも誅殺した。

基治は、秀衡や義経亡き後の平泉に、平氏との戦いに明け暮れた鎌倉勢との戦いに勝てる力はないと感じていたろう。しかしそれでも、源義経を追討し、結果として義経や忠衡を死に追いやり、平泉を滅ぼそうとする源頼朝に下る気にはなれなかったろう。

佐藤基治勢が壊滅した後の8月10日に、鎌倉勢の小部隊が、阿津賀志山の西側の間道を通り、小坂峠を抜けて平泉勢の背後に抜けて撹乱し、防塁を盾に南側に集中していた平泉勢は混乱し、北に潰走することになる。もし、地の利に明るい佐藤基治が、阿津賀志山かあるいは大鳥城で、平泉勢と歩調を一つにしていれば、平泉勢と鎌倉勢の戦いの様相はもう少し違っていたかもしれない。

石名坂の戦いで敗れた佐藤基治は討ち死にしたとも自害したともされ、その首は
阿津賀志山山頂にさらされたとされるが、赦免されて本領に戻ったとするなど、一族の者ともども、赦免されたとする伝承も多く伝えられる。青森県黒石市の石名坂館には、奥州藤原氏の家臣佐藤基治なる人物が、主家の滅亡に伴い、逃れてきたという伝承が残っている。

源頼朝は、当時の武士道の美意識からなのだろう、潔い者には温情を持って取り計らったようだが、平泉から逃げた藤原泰衡を裏切り、その首を持参した河田次郎などは、譜代の恩を忘れた行為で八虐の罪に当たるとして斬罪にしている。しかし佐藤基治は、弟の源義経を助け、子の佐藤嗣信・忠信兄弟は、平氏との戦いに多大な戦功を立ててもいる。そして石名坂の戦いでは、命を捨てて潔い戦いぶりを見せた。頼朝は生き残った佐藤一族の多くを赦免したようだ。そこには弟源義経に対する贖罪の気持ちもあったろうと推測する。

佐藤一族はその後赦され、本領の大鳥城にしばらく居城していたと考えられる。伊達郡には、石名坂の戦いで戦功を挙げた常陸入道念西が入り伊達氏を名乗るようになったが、佐藤一族に対しては、一定の敬意を払っていたようで、佐藤一族の菩提寺である医王寺には、佐藤基治、嗣信、忠信、乙和御前の墓が残っている。その後佐藤一族は、本吉地方を始めとした各所の飛び地領に移った。また13世紀に入ると、伊勢地方に移り郷士となった一族もあり、全国に佐藤氏が散らばった。

基治の妻で、佐藤嗣信・忠信兄弟の母の乙和御前は、気仙沼本吉の信夫館に移り住んだとされ、近くの浄福寺には乙和御前の墓がある。また同じ本吉の浄勝寺には、佐藤嗣信・忠信兄弟の墓と木像が伝えられている。本吉地方の佐藤一族は、その後、気仙沼の熊谷氏や石巻の葛西氏の与力となり、戦国期に入っていくことになる。