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仙台には昔から、仙台城南の竜の口渓谷は、仙台城が落城の折の「立退き口」であるという話しが伝わっている。ある時、仙台北部の大和町宮床の資料館でこれと同じような記述を見た。この大和町の資料館の記述では、仙台城から立退く際のルートとして、下のようになっていた。

竜の口渓谷→郷六御殿→根白石→宮床

この立退きルートは、徳川との戦のような南からの侵攻であった場合は(北からではNG)一定の信憑性があると思い、このルートを踏査してみた。

現在、竜の口渓谷には立ち入ることは出来ないが、かつては化石があるということで、よく中高生が入った。当時、この私も渓谷に入ったことがあるが、曲がりくねった渓谷を延々と歩き、やっとの思いで渓谷から這い上がったのは、仙台城搦手口の近くの八木山橋の根元だった。

また搦手口から出て渓谷に下りて、曲がりくねった急な渓谷を上り、4、5時間かけて渓谷を抜けることは出来るが、渓谷の終点は搦手口から 歩いて30分ほどの2kmほど先の仙台城西側の御裏林内であり、これでは何の意味もないと思われる。

この御裏林は、仙台城の西にあたる原生林で、伊達藩はここへの一般の者の立ち入りを禁じ、厳重に管理していた。御裏林内には、仙台城築城前は、かつての最上街道が通っていた。この旧最上街道跡が立退き路として想定されたと推測する。

本丸搦手口からだと、左側に深い竜の口渓谷を臨みながら、比較的狭く平坦な尾根道を西に進むと、現在の東北大学のキャンパスに出る。 現在はここに市街地からの道路があるが、これは大学が移転してからの道路である。さらに尾根道を進むと宮城教育大学のキャンパスに抜けてそこから郷六に抜ける。

また、二の丸からだと、現在の東北大学植物園の残月亭付近を古最上街道が通っていて、郷六の近くの愛子に抜けたと伝えられている。 もちろんこの街道は御裏林内なので、伊達時代は一般の者が入れる状態ではなかった。この街道跡が、植物園のなかを通り、搦手口からの尾根道に合流したものと思われる。この残月亭の場所も 古最上街道付近であることは意味深である。

もちろん道なき道ではあったろうが、この全行程は曲がりくねっていることを考慮してもほぼ6km程度と思われ、比較的平坦であることを考えれば2時間ほどで郷六に着くことができると思う。郷六には別邸の「郷六御殿」があり、この地には、「伊達の姫様たちがよく遊びに来ていた」との伝承もあり、時折、古最上街道を通り、野遊びをしていたのだろう。

郷六御殿の西側400mには中世の城館跡の郷六館跡が、また広瀬川を挟んで北側には葛岡城跡があり、この2つの城館は、立ち退き時には何らかの役割を担っていたのではと推測できる。特に葛岡城は、郷六御殿から広瀬川を渡る、渡し場だったと考えられ、その地から、馬などで宮床に向かう拠点だったと考えられる。

この郷六から西へ3kmほどの栗生には、伊達政宗の長女で、切支丹だったと伝えられる五郎八姫の屋敷があった。その地域一帯には、かつて不治の伝染病とされていたライ病(ハンセン氏病)患者が住んでいたという風説があり、またこの地には神社の行事とかで、切支丹を連想させるような言い伝えがある。この地一帯には切支丹が匿われていたとも考えられ、また立ち退きルートにもあたり、人をあまり近づけさせないように、意識的にそのような風説が流されたとも思われる。

この郷六から根白石までは北へ約10kmで、宮床はさらにその先10kmあり、主要街道からは外れた道で最短距離で行くことができる。宮床から先は、状況次第で、山形方面へ、あるいは松島方面、または石巻方面へと向かうことになるのだろう。ちなみに、松島の瑞巌寺と、石巻の北上川河口の釣ノ尾城は、伊達氏の詰の城と伝えられている。