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慶安4年(1651)の由井正雪の乱に加担し、捕縛され磔となった丸橋忠弥は、出羽山形の生まれと伝えられ、現在の山形市には、忠弥の伝承を伝える地が数か所ある。

丸橋忠弥は、河竹黙阿弥の歌舞伎作品『慶安太平記』などで様々に取り上げられ、その経歴には創作も多く含まれるとは思うが、なにがしかの真実がモチーフになっているものと考えられ、ここではそれらの俗説をそのまま上げることで、真実に迫ろうと思う。

丸橋忠弥は、幼名は小太郎、土佐の長宗我部氏最後の当主盛親の側室藤枝の子で、本名は長宗我部盛澄とされる。長宗我部氏が滅亡後、身重の藤枝は、父の最上家家臣で槍術師範だった丸橋曲流のもとに逃れ保護を受け、忠弥は出羽山形で生まれ育った。曲流の死後、忠弥は元服して丸橋忠弥盛澄と名乗ったと云う。

忠弥が居住していたとされる地は、山形城三の丸北側に隣接する地であり、丸橋家は最上藩の中流武士だったと推測される。しかし、元和8年(1622)山形最上藩は改易され、藩士らの多くは浪人となり全国に散った。忠弥はやがて、同じ最上家の浪人で、江戸で北条流軍学と日置流弓術を修めて道場を開き成功した、柴田三郎兵衛という者から招きを受け、江戸で得意の宝蔵院流槍術の道場をお茶の水に開いた。

当時は、三代将軍徳川家光の時代で、外様大名を中心として、宇和島藩、安芸福島藩、山形最上藩、肥後加藤藩などが、些細な理由から次々と改易され、多数の浪人が生まれていた。その浪人の多くは、士官の口を求めて江戸に集まり、軍学塾や道場に通う者も多かった。しかしすでに太平の世であり、武術で士官の口を求めるのは困難な時期になっており、それらの塾や道場は、浪人たちの不満が集まる場になっていた。その様な時期に、忠弥は由井正雪と出会った。

由井正雪は、駿府宮ケ崎の出身で、坂東平氏三浦氏の流れとされる。17歳で江戸へ出て、軍学者の楠木正辰の弟子となり軍学を学び、才をみこまれ、その娘と結婚し婿養子となった。「由井民部之助橘正雪」と名のり、神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開いた。道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。

軍学者としての名声を高め、御三家の一つである紀伊藩主、徳川頼宣や、将軍家からも仕官の誘いがあったがこれには応じず、それが浪人たちの共感を呼び、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていった。丸橋忠弥もまた正雪に共感し、行動を共にするようになった。

慶安4年(1651)4月、徳川家光は48歳で病死、その跡を11歳の徳川家綱が継ぐことになった。将軍が11歳と幼いことから、正雪らはこれを好機とし、浪人救済を掲げ行動を開始した。正雪は、紀州藩主徳川頼宣に近づき、浪人の救済を説き、頼宣もまた、地元の国人を懐柔する地士制度を実施するなど、浪人問題を解消すべく多くの対策を打ち出した。また、この時期、中国では清が明を追い出し、政権を握り、明の鄭成功らは台湾に渡り抵抗運動を続けていた。 頼宣は、この鄭成功の求めに応じ、明へ援軍を送ることに熱心だったが、これも浪人対策の一環だったとも考えられる。

しかしそれらの企てが功を奏することは無く、結局正雪らは倒幕に踏み切ることになった。計画では、 丸橋忠弥らが、江戸小石川の幕府火薬庫を爆破し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取る。その上で江戸城を占拠し、次の将軍に予定されている徳川家綱を人質とする。同時に京都、大阪でも浪人たちが決起し、その混乱に乗じて正雪が天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川将軍を討ち取る為の勅命を得て、幕府に与する者を朝敵とする、というものだった。

歌舞伎の「慶安太平記」では、忠弥は酔っぱらったふりをして、謀反を起こす時の下調べのため、江戸城の外濠に石を投げ込み、その水音でお濠の深さを測る。それまでの酔態から正気の目付きに変わった時の凄み。さらに煙管を取り出しての見得。忠弥の行動を見た松平伊豆守がゆっくりと音もなく近づいて来て、忠弥に傘を差しかける。ハッとして再びもとの酔態に返る忠弥。この劇中の名場面である。

しかし、歌舞伎の名場面とは異なり、この計画は倒幕の計画としてはあまりに杜撰なもので、密告により計画は事前に露見してしまった。慶安4年(1651)7月23日、南北両奉行所の同心らは、忠弥ら一味が警戒することがないように、切支丹の捜索という名目で出動し、二手に分かれ、ときどき小雨の降る夜半、忠弥の長屋を取り囲んだ。捕り方たちは、忠弥が槍の名手であることを警戒し、「火事だ、火事だ」と騒ぎたて、忠弥が丸腰で長屋を飛び出してきたところを捕縛した。これと併せて、江戸にいた忠弥の仲間も一斉に捕縛された。

由井正雪は、その前日の7月22日に京都へ向け江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日駿府に到着した。駿府にはすでに手が回っており、翌26日の早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされた。捕縛された丸橋忠弥は、その翌月の8月に鈴ヶ森で磔にされ処刑された。

辞世「雲水の ゆくへも西の そらなれや 願ふかひある 道しるべせよ」

駿府で自決した正雪の遺品から、紀州徳川頼宣の書状が見付かり、頼宣の計画への関与が疑われた。しかし後にこの書状は偽造であったとされ、頼宣が表立った処罰を受けることはなかったが、10年間紀州へ帰国することができなかった。徳川頼宣が、この件にどのように関わっていたのか、あるいはいなかったのかは謎のままである。

また、由井正雪の四天王の一人で、京都の二条城を占拠するという大役を担っていた熊谷三郎兵衛直義は、妻の実家がある庄内の鶴岡に逃れ、寺子屋の師匠をしたりしていたが、結局捕縛され打ち首獄門の刑に処せられた。しかし幕府の探索を逃れたという伝承が、山形県庄内町に残っている。それによると、

三郎兵衛は捕り手の包囲を逃れて庄内町立谷沢に隠れ、行者となって様々な霊験を示したため、人々の帰依を受けるようになった。晩年には生身入定することを欲し、そのとき遺言として、「どのような願いでも一生に一度は叶えてやろう」と言い残し、食を絶ち、念仏の鉦を携えて塚に入り入定した。この地の熊谷神社に祀られ信仰を集め、戦前には参詣人で賑わい、春秋の祭礼前後には夜籠りする人も多く、臨時列車も運行されたほどであったと云う。

この事件の後、幕府はこれまでの武断政治を改め、浪人対策に力を入れる様になり、諸藩にも浪人の採用を奨励し、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになる。

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