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仙台城を「攻略する」とだいそれた考えのもとに仙台城を幾度か歩いてみた。その中で納得のいかないことが多数出てきた。そして考え到ったのが、仙台城は未完成ではないのかということだ。

仙台城は、伊達政宗が築いた近世の城だ。そして近世の城郭としてはあまり例のない「戦いの城」である。どう見ても、中世の山城を近世に持ち込んだものだ。

この城には天守閣がない。その代わりに天守台があり、将来的には天守閣を建てる予定であったと伝えるが、果たしてそうなのか。
近世の城郭での天守閣の役割とは、治世の城として、領内に威厳を示すことが最大の目的だったろう。この天守閣の構想があったとされる天守台は、仙台城本丸の西端にある。その場所は、たとえ会津若松城のような巨大な天守を築いたとしても、城下中心部からこれを臨むことは困難な位置にある。これはそもそも、政宗は仙台城を治世の城としては考えてはいなかったということではないのか。

近世においては、天下をかけた大戦さのような場合、城攻めには大砲が用いられることは当然の時代になっていた。大阪の陣において、徳川方は大阪城に対して大砲を使用し、政宗はそれを目の当たりにしている。また関ヶ原の戦いの折の徳川による上杉討伐に対し、上杉景勝は、会津若松城の近くに山があり、そこからの大砲による攻撃を受けることを懸念し、戦いの城を別に求めている。事実、その後の戊辰戦争の時には、新政府軍はその山に大砲の陣地をすえて、会津若松城の天守閣は格好の目標にされた。

仙台城を大手口のある北側から攻めようとするとき、広瀬川左岸に兵を配置することになる。しかしこの仙台城東側は平坦地が続き、高台はない。大橋を眼下にした広瀬川左岸に砲台陣地を築いたとして、本丸までの距離はおよそ800mほどで、射程距離としては十分ではあるが、比高差はおよそ100mある。当時の大砲の性能で、有効な攻撃はできなかっただろう。逆に、本丸部に砲台を据えれば、城側からの大砲による攻撃は極めて有効なものだったろうと思われる。

近代戦における戦いの城に、政宗は天守閣が必要とは考えていなかったと私は思う。それでは政宗が考えた仙台城は、天守閣を持たない、今に伝えられるものが完成の形だったのか、やはりそうは思えない。城下から見ることが出来ない、西端の天守台にその謎を解く鍵があるように思える。

伊達政宗が仙台城を築いた折には、二の丸、三の丸はまだ造られてはいなかった。二の丸は二代藩主伊達忠宗の時に築造されたもので、治世の府としての役割を負ったもので、防御的にさほど優れているとは思えない。三の丸は、大橋や沢の郭の防御に何らかの役割を持っていたようにも思え、政宗の時代もなんらかの手は加えられたのではと推測している。

現在残る仙台城の跡を見れば、それはそれで一つの山城として形は成している。東、南は断崖絶壁に囲まれ、こちらからの力攻めはまず無理だろう。北側には水堀と多くの郭が配されている。巷間言われているように、仙台城の弱点は尾根続きの西側、御裏林だろう。もちろんこちらから攻め込むとしてもそう容易なことではない。

西側から攻め込むルートは3箇所、一つは、現在の東北大学川内キャンパス(忠宗時代の二の丸、政宗の時代には二の丸はなかった)の北側を通り、もう一つはやはり二の丸北側の亀岡八幡宮の下を通り、御裏林の尾根に抜けるルートがある。このルートは現在でも曲がりくねった急坂で、政宗時代にまともな道があったとは思えない。

三つ目のルートは、西側愛子方面、郷六から現在の宮城教育大学のキャンパスに上り、御裏林に入り、東北大学工学部のキャンパスに抜けるコースが考えられる。ここにはかつて最上道が通っており、それなりの移動は可能と思える。しかしいずれのコースでも、大軍の移動は不可能で、豊臣秀吉ばりの大土木工事を行いルートを確保する必要があると考える。

現在の仙台城に見る西の守りは、現在の東北大学植物園内に残る切掘、本丸西側を走る市道に残る切通しなどがあるが、天下を巡る戦に対する備えとしては十分なものとは言えない。仙台城のいわゆる天守台はこの切通しの上にあり、東の大手口や城下を臨むものではなく、この西の御裏林に対しているように思える。

天守台を西側に配し、天下への野望を秘めた伊達政宗が、この西側の防備を考えていなかったわけはないと思われる。ここに、私の「仙台城は未完成」の疑惑が起こってきた。政宗がどう考えていたのか、そのヒントが、会津の奥、向羽黒山城にあると思っている。

ここで会津の向羽黒山城に注目すると、この会津美里町の向羽黒山城は、葦名氏が築造し、その後、伊達氏、蒲生氏、上杉氏が注目し整備した巨大な山城である。特に上杉氏は関ヶ原の戦いの前に、徳川勢を迎え撃つために徹底的に整備したという。この城域は、東西約1.4km、南北約1.5kmで、山塊全体が一つの巨大な城であり、その山塊のいくつかのピークに、それぞれ一の郭、二の郭、羽黒郭のように独立した山城があり、それを囲み、つなぐように100以上の郭が存在したらしい。

これを仙台城と、その西に位置する御裏林に当てはめ、東西約2.0km、南北1.0kmの城域を設定してみると、現在の仙台城を東の端とし、西側は東北大学の現在のキャンパスがすっぽり入ってしまう。東と南は竜の口渓谷の断崖絶壁に囲まれ、北は広瀬川と複雑に入り組んだ急斜面に守られた山城が幻出してくる。伊達政宗、蒲生氏郷が大きな関心を寄せ、上杉景勝が徳川との戦いの城として整備した向羽黒山城を、徳川を仮想敵として考えていた伊達政宗が、念頭になかったわけはないと思える。

さらに、この地域を地図で仔細に眺めると、この地域の最高所は東北大学西側で、大きなピークがこれをも含め、西側の天守台まで3箇所あることがわかる。また、北側から南に向けて竜の口渓谷側に大きく切れ込む急峻な沢は、現在の仙台城址西側に3箇所あり、現地を踏査すればわかるが、これらの沢は、その部分だけ痩せ尾根を形成しており、少し手を加えるだけで、巨大な空堀に変貌するだろう。

山城での一般的な傾向から考え、最高所を本丸とするならば、現在の仙台城址は三の丸ということになる。現在の仙台城址が、伊達政宗の構想では三の丸と考えると、徳川を仮想敵として考えた「野望の城」としてふさわしい姿が見えてくる。

向羽黒山城の様子を考え、仙台城と西側の御裏林の地形を考えると、東北大学西側に本丸を置き、その東に二の丸、現在の仙台城址は三の丸、それぞれの周囲と間には、北郭と青葉郭、その北側に出丸として亀岡郭(現在の亀岡八幡)、西側の出丸として郷六館などが考えられる。そしてここでの本丸西側から郷六館までの間は、家臣団の大小の郭が配されると想定した。これが伊達政宗の構想の中では「野望の城」としての仙台城の完成ではなかっただろうか。

徳川勢が、もし仙台まで攻め込んだとして、仙台城を攻略するには北東側と西側に兵を分けて攻めかかることになるだろう。しかしこのとき、仙台城北部には広瀬川がまわりこんで渓谷を形成しており、八幡町から西側の郷六までの大軍の移動は無理であり、徳川勢は東と西に分断されることになる。

北東側からは、唯一攻め込める地点としては、澱橋付近を渡河し、東北大学川内キャンパス(忠宗時代の二の丸)に攻め込み、ここを攻撃拠点とせざるを得ないだろうが、政宗の「野望の城」からすれば、ここは南側の「青葉郭」と西側の「二の丸」から大筒による十字の砲火を浴びる位置になる。また北東方向から、切通しを登り攻めれば、張り出した両側の尾根上から、弓鉄砲の一斉射撃を浴びる。攻撃が一方向に偏れば、北側の出丸にあたる「亀岡郭」からの兵により背後を突かれる。

西側の郷六方面からは、大軍での攻撃は無理だが、それでも秀吉ばりの大土木工事を行い道を開き攻めるとすれば、西に連なる小郭を落としながら、宮城教育大学のキャンパス付近に攻撃拠点を置くことになるのだろう。しかし本丸に達するには、急斜面と巨大な空掘に阻まれることになる。

幸いなことにというべきか、伊達と徳川とは結局戦うことはなかった。そしてその後の太平の時代に、奥羽は少しずつ、真綿で首を絞められるように富は中央に収奪され、誇りが奪われていき、寛文事件により伊達は徳川に完全に屈服したように私には思える。