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イザベラは、粕壁から日光へ向かった。道中で見る人々の服装や生活の様子に興味を示している。人々は誰もが仕事に精を出し、特に七、八歳の女の子でさえも赤ちゃんを背負い、その役割を果たしながら遊んでいる様子に驚いたようだ。
美しく耕された田畑や、松林や杉の林の美しさを見ながら、日光街道に入ると、その美しさは際立っており、関東平野の美しさとは比べ物にならないものと感じたようだ。町の家々は小さく華奢で、街路さえも清潔で、異邦人としてその場にいるイザベラは畏怖の念を持ったようだ。
日光の入り口の宿につき、ここまでの道中を走ってくれた車夫たちと別れることになったが、この時点で、イザベラと親切な車夫たちの間には絆ができていたようで、車夫たちはイザベラのために山のツツジを手折り、イザベラは日本の人々の温かい心に感じ入ったようだ。

第七信
日光、金谷家

(前略)

【美しい部屋】
金谷さんの妹は大層やさしくて、上品な感じの女性である。彼女は玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。二つの縁側はよく磨かれている。玄関も私の部屋に通ずる階段も同じである。畳はあまりにきめが細かくて白いので、靴下を履いていてもその上を歩くのが心配なくらいである。磨かれた階段を上ると、光沢のあるきれいな広い縁側に出る。ここから美しい眺めがみられる。縁側から大きな部屋に入る。ここは大きすぎたので早速二つの部屋にわけられた。
(中略)
私の部屋の正面はすべて障子になっている。日中には障子は開けておく。天井は軽い板張りで、黒ずんだ横木が渡してある。天井を支えている柱は薄黒く、光沢のある木である。鏡板は空色の縮紙に金粉を振りまいたものである。一方の隅には床の間と呼ばれる二つの奥まったところがあり、光沢のある木の床が付いている。一つの床の間には懸物(壁に掛けた絵)が懸けてある。咲いた桜の枝を、白絹の上にえがいた絵で素晴らしい美術品である。これだけで部屋中が、生彩と美しさに満ちてくる。それをえがいた画家は桜の花しか描かなかったが、革命(維新)の戦いで死んだという。もう一つの床の間には棚があり、引き戸のついた非常に貴重な飾り棚がのっている。それには金地に牡丹が描かれている。光沢のある柱の一つには、真っ白の花瓶が掛けてあり、バラ色のツツジが一筆描いてある。もう一つの柱の花瓶には、菖蒲が一本描いてある。花瓶の装飾はそれだけである。畳はとても網目が細かく白いが、部屋の調度品といえば、ただ屏風だけで、何か山水画らしきものが墨で描いてあった。私は部屋がこんなに美しいものでなければよいのにと思うほどである。というのはインクをこぼしたり畳をざらざらにしたり障子を破ったりはしまいかと、いつも気になるからである。階下にも同じように美しい部屋があり、すべての家事が行われている大きな場所がある。家の右手には、瓦屋根の蔵と呼ばれる防火倉庫がある。

【金谷さん一家】
金谷さんは神社での不協和音(雅楽)の指揮者である。しかし彼の仕事はほとんどないので、自分の家と庭園をたえず美しくするのが主な仕事となっている。彼の母は尊敬すべき老婦人で、彼の妹は、私が今まで会った日本の婦人のうちで、2番目に最も優しくて上品な人であるが、兄と一緒に住んでいる。彼女は家の中を歩き回る姿は妖精のように軽快優雅であり、彼女の声は音楽のような調べがある。下男と彼女の男の子と女の子を入れて一家全員となる。金谷さんは村の重要人物で大変知性的な人である。十分な教育を受けた人らしい。彼は妻を離婚しており、彼の妹は事実上夫と別れている。近ごろ彼は、収入を補うためにこれらの美しい部屋を、紹介状持参の外国人に貸している。彼は外国人の好みに応じたいとは思うが、趣味がいいから、自分の美しい家をヨーロッパ風に変えようとはしない。

(後略)

第八信
日光

【日光】
私はすでに日光に九日も滞在したのだから、「結構」という言葉を使う資格がある。日光は、日のあたる光輝を意味する。その美しさは全日本の詩歌や芸術に有名である。男体山を主峰とする山々は、1年の大半を雪に覆われ、あるいは残雪を点在させているが、人々に神として尊崇されている。すばらしい樹木の森林。人がほとんど足を踏み入れない峡谷や山道。永遠の静寂の中に眠る暗緑色の湖水。二百五十フィートの高さから中禅寺湖の水が落ちる華厳の滝の深い滝つぼ。霧降の滝の明るい美しさ。大日堂の庭園の魅力。大谷川が上流からほとばしり流れ出てくる薄暗い山間の壮大さ。ツツジ、木蓮の華麗な花。おそらく日本に並ぶものがない豪華な草木も、二人の偉大な将軍の社を取り巻く魅力の数々の、ほんの一部分にすぎない。

【参道】
ここではあらゆる道路、橋、並木道が、これらの神社に通ずる。しかし赤橋(御橋)を通るのが壮大な参道である。これは広い道を登ってゆくもので、所々に階段があり、両側に石垣の土手があり、その一番上に杉の並木がある。この坂の頂上に立派な花崗岩の鳥居がある。高さは二十七フィート六インチ。柱は直径三フィート六十一。1618年に筑前侯が自分の国の採石場からとって献上したものである。この後ろには百十八個のすばらしい青銅の灯ろうが並ぶ。これらは大きな石の台座の上にすえつけられ、その各々に家康の贈名(東照大権現)とともに、寄贈者の名が刻まれている。すべてが大名の寄進で、奉納の銘がある。堅固な花こう岩でつくられた神聖な水槽があり、二十の四角な花こう岩柱の上を屋根で覆っている。朝鮮王と琉球王が献上した、青銅の鐘、燈籠、枝つき燭台はすばらしい作品である。左手には五重塔があり、高さは百四フィート、華やかな木彫りがあり、同じく華やかに金色に塗られ絵画が施されている。

【陽明門】
この庭から別の階段を上ると、陽明門に出る。毎日その素晴らしさを考える度に驚きがましてくる。それを支える白い円柱には、架空の動物麒麟の、大きな赤い喉を持つ頭からできている柱頭がある。台輪の上の方に張り出した露台があり、門の周りを巡り、その手すりは龍の頭が背負っている。中央には二匹の白龍が永久に戦っている。下方には子供たちが遊んでいる高い浮彫があり、次に華やかな色彩の横木の網細工があり、中国の七賢人がいる。高い屋根は、真紅の喉を持つ金色の龍頭に支えられている。門の内部には、白く塗られた側壁龕があって、牡丹の上に上品な唐草模様で縁どられている。回廊が左右に走っている。その外壁は、二十一の仕切りがあり、鳥、花、木のすばらしい彫刻でかざられている。回廊は三方から別の中庭を囲み、第四辺は最短の石塀となって山腹に接している。右手には装飾を施した|建物が二つある。一つは神聖な舞踏(神楽)をする舞台があり、もう一つは杉の木の香を焚くための祭壇(護摩堂)がある。左手には祭りのときに用いられる、三台の神聖な車を入れるための建物、(神輿堂)がある。中庭から中庭へ進んでいくと、次々と素晴らしい眺めに入るように感ぜられる。これが最後の中庭だと思うとほっとして、嬉しくなるほどである。これ以上心張りつめて嘆賞する能力がつき果てようとしているから。

【拝殿】
中央に神聖な囲いをしてある。それは金色の格子細工で、上も下も華やかな色彩の縁取りがしてある。正方形をなしていて一辺が百五十フィート。中には拝殿(礼拝堂)がある。格子細工の下方には、草を背景として小鳥の群れがくっきりと浮き彫りになっており、金ぱくと色彩が鮮やかである。堂々たる入り口から二つの杉並木を通り、中庭、門、寺、社、五重塔、巨大な青銅の鐘、金象眼の灯ろうの間を抜けて、素晴らしさに戸惑いながらこの最後の中庭を通り抜ける。黄金門を通って、薄暗い黄金の寺院の中に入ると、そこにはただ黒い漆の机だけがありその上に丸い金属の鏡がのっている。
内部にはきれいに畳を敷いた広間がある。幅四十二フィート、前後が二十七フィート。両側に高い部屋がある。一つは将軍のため、もう一つは住職様のためのものだが、もちろん二つとも中には何もない。広間の天井は鏡板になっており、鮮やかな壁画がある。将軍の部屋には非常に立派な襖があり、麒麟(伝統的怪物)が純金の地にえがかれている。四枚の樫の鏡板は、横八フィート、縦六フィートで、鳳凰を低い浮き彫りにしたものがあり、いろいろ工夫を凝らした立派な彫刻である。住職の部屋にも同じような鏡板があり、威勢良くしあげられた鷹で飾られている。この薄暗い拝殿の中のすばらしいものの中で、唯一の宗教的な装飾は飾りのない金の御幣である。後ろの階段を上ると、石を敷いた礼拝堂に入る。そのりっぱな鏡板の天井には、紺地に龍が描いてある。この部屋の先に、いくつか金色に塗られたドアがあり、主要な礼拝堂にいたる。そこには四つの部屋があるが、中に入ることはできない。しかし外側が非常に光沢のある墨塗りに、金を盛り上げているので、おそらく内部もきわめて荘厳なものに違いない。

【家康の墓】
しかしこれらの豪華な社殿の中に、自分の遺骸を安置するように家康が命じたのではない。再び最後の中庭に戻り囲いから出て、東の回廊の中の屋根つきの門口を通り抜けて、石の回廊に入らなければならない。ここはコケや雪割草で緑色である。内には富と芸術が黄金と彩色で仙境を作り出しており、外には雄大な大自然が、偉大な将軍の墓を華麗な悲しみの中に包んでいる。二百四十の石段を上ると丘の頂上に出る。そこには家康の遺骸が眠っている。彼のために建てられた堂々たる社殿の背後の高いところ、青銅の墓碑を上に載せ、飾りはないが巨大な石と青銅の墓があり、その中に安置されている。前には石机があり、青銅の香炉が飾り付けてある。真鍮の蓮の花と葉が彫られている花瓶、口に青銅の燭台をくわえた青銅の鶴がある。上に欄干をつけた高い石垣が、簡素ながらも堂々たる囲いをかこんでいる。後ろの丘にそびえる杉の大木は、墓の周りを昼なお薄暗くしている。日光が木の間を斜めに漏れ入るだけである。花も咲かず、鳥も鳴かず、日本で最も有能で偉大だった人物の墓の前には、ただ静けさと悲しみが漂っている。

(中略)

【西洋美術と比較】
これらの社殿は日本におけるこの種のものでは最も素晴らしい作品である。堂々たる背景をなしている杉の並木は、地上三フィートのところで、幹の周囲が二十フィートに満たない木はほとんどない。社殿の美しさは、西洋美術のあらゆる規則を度外視したもので、人を美の虜にする。そして今まで知られていない形態と色彩の配合の美しさを認めないわけにはゆかない。漆を塗った木は、美術の非常に高い思想を証明するのに役立っているのである。豊富に金がもちいられており、黒色、鈍い赤色、白色は、まったく独自な雄大さと豊富さをもって用いられている。青銅の雷門細工だけでも研究する価値がある。木彫は、その思想と細部をよく理解するためには、何週間も熱心に調査する必要がある。襖、手すりの一つでも、六十枚の鏡板があり、それぞれが四フィートの長さで、くっきりと深い透かし細工がなされている。えがかれているものは、孔雀、雉、鶏、蓮、牡丹、竹、草葉である。鳥の姿や色彩を忠実に写し、美しい動きを再現しているが、何ものもこれにまさるものはないであろう。

(後略)

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