鳥海山は、山頂に雪が積もった姿が富士山にそっくりなため、出羽富士とも呼ばれ親しまれている。広く秋田県や山形の庄内地方から望むことができ、秋田富士、庄内富士などとも呼ばれている。古くからの名では鳥見山(とりみやま)という。鳥海国定公園に属し、日本百名山、日本百景に数えられている。山頂からは、北方に白神山地や岩手山、南方に佐渡島、東方に太平洋を臨むことができる。

紀元前466年には大規模な山体崩壊を起こし、岩石や土砂が現在のにかほ市に堆積して象潟の原型を形成した。象潟付近の九十九島は、このときの噴火で形成された流れ山で、形成当時は海中の小島であったが 、文化元年(1804)の象潟地震により隆起し特徴的な地形となった。敏達天皇7年(578)、和銅年間(708〜15)、養老元年(717)にも噴火したことが伝えられており、鳥海山は578年から717年の約140年間ほど活動期だったのではないかと考えられる。

大和朝廷はこの時期、さかんに東北地方の蝦夷征服活動を進めており、和銅5年(712)には庄内に出羽柵が設けられ、出羽国が置かれ、全国から出羽への植民が行われた。さらに大和勢力は、現在の秋田市にまで勢力を拡大していった。しかしこの地を支配していたのは蝦夷であり、その大和勢力の拡大に対し、度々反乱を起こした。

大和朝廷にとって、鳥海山の鳴動、噴火と蝦夷の反乱は関連付けて考えられるようになり、都の鬼門の方角の鳥海山の噴火は、蝦夷の反乱とともに恐れをもって取り上げられるようになった。鳥海山は、古くは「大物忌神」の名で登場し、度々神階の陞叙を受けている。物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むということであり、蝦夷の反乱と噴火に対してのものと考えられ、また大和朝廷による蝦夷征服の歴史から、蝦夷の怨霊を鎮める意味があったと考えられている。

承和7年(840)には、大物忌神が、雲の上にて十日間に渡り鬨の声をあげた後、石の兵器を降らし、遠く南海で海賊に襲われていた遣唐使船に加護を与えて、敵の撃退に神威を表したとし、大物忌神を従四位下勳五等へ陞叙している。また、貞観13年(871)の出羽国司の報告で、「去る4月8日に噴火があり、土石を焼き、雷鳴のような声を上げた。山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水が溢れ、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10丈(約30m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小蛇は数知れずである。河の緑の苗は流れ損ずるものが多く、中には濁った水に浮いているものもある。古老に尋ねたところ、未曾有の異変であるが、弘仁年間(810〜24)に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった」とある。

この報告を受けた朝廷は陰陽寮で占いを行ったところ、報祭を怠り、また骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったもので、このままでは戦乱が起こる、と言う神託が出た。そこで朝廷は奉賽を行い、神田の穢れを除去せよと国守に命じたという。

その後も、元慶2年(876)に蝦夷の乱が起き、元慶8年(884)には噴火があり、「6月26日、秋田城へ石鏃23枚が降った」との記述がある。また天慶2年(939)4月にも蝦夷の乱が起きたが、同年同月「大物忌明神の山が燃えた」との記述があり、これらの機を一にしたような蝦夷の乱と鳥海山の噴火活動を、大和朝廷は大いに恐れたようだ。その後、大和朝廷は北進を停止し、それとともに以後数百年間は噴火の記録はない。

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