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いわき市金山町の小高い丘に、安寿と厨子王のゆかりの地として、安寿と厨子王母子像が立っている。福島県には、安寿と厨子王に関する伝承が広く伝えられる。その伝承は、福島県浜通りの、相馬氏、岩城氏、楢葉氏、標葉氏などの桓武平氏流れの一族に関わる史実が含まれているようだが、時代背景が交錯しており、その解明は困難であり、ここでは福島県に伝わる伝説として紹介するにとどめる。

岩城判官・平政氏は平将門の子孫で、康保4年(967)に賊将が朝廷にそむいたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜りいわきに入り、住吉館に居し、この地方を治めていた。政氏は、神社を再興したり、付近の浜から砂鉄を運ばせ鉄の生産を行ったりと、この地に善政を敷いた。しかしその後、讒言により、政氏は朝廷での勤めに怠りがあったということで筑紫の国に流されてしまった。

しかし、この地の判官職は、その子の政道が継ぐことを許され、政道は父の志を継いで政治に励んだが、その内に信夫地方の領地を失ったりしたことで一族に不和が生じ、桜狩の帰り道、政道は義兄で家臣の村岡重頼に殺されてしまった。当時政道には、万寿という13歳の女の子と、千勝という11歳の男の子がいた。これがその後物語にもなった安寿と厨子王であると云う。

父政道の死後、奥方や安寿、厨子王の身に危険が迫り、奥方は安寿と厨子王、それに忠臣の大村次郎と召使の小笹をつれ、ある夜奥方の実家のある信夫を指して住吉館を脱出した。途中追っ手に追いつかれ、大村次郎はこれと戦い討ち死にし、主従4名は命からがらようやく信夫にたどりついた。

安寿、厨子王らは、長和6年(1017)、岩城判官家の再興を計るために京都を目指し、まずは、越後の国へと向かった。信夫庄を旅立ち20日あまりの苦しい旅路の末、ようやく直江津(新潟県)に到着した。しかし、安寿と厨子王たちはこの地で人買いに騙され、母と乳母の小笹は船に乗せられ、小笹は海に身を投げ、奥方は佐渡に連れて行かれた。

小笹の魂は、五色の大蛇となり、故郷の広野町に戻り、海岸の日の出松に巻きついた。村は一天にわかにかき曇り、激しい雨が降り注ぎ、暗黒の空を稲妻が飛来した。村人たちは、これは小笹の霊が大蛇と化して戻ってきたのだと噂しあい、その霊を慰めるために祠をつくり姥嶽権現として祀ったと云う。

安寿と厨子王は別の船に乗せられ、丹後由良湊の長者である山椒太夫に売り渡され、山椒太夫の屋敷に連れて行かれた。安寿は海で潮を汲み、厨子王は山で柴を刈り、奴隷として苦しい毎日を過ごす。厨子王は1日に3荷の柴を刈れ、安寿は1日に3荷の潮汲みをしろ、間があれば藻潮を焼く手伝いをしろ、糸を紡げ、と追使われ、厨子王は柴刈りの鎌を怨み、姉は潮汲む桶に泣いた。

ある日二人は逃げる話をしていたのを聞かれ、安寿は額に十字に焼きごてを当てられた。その痛みに耐えながら守り本尊の地蔵尊に祈ると、不思議に痛みは消え、額の傷も消えた。

ある日、安寿は、守り本尊の地蔵尊を弟厨子王にあたえ、一人で逃げることを勧め、自ずからは残り厨子王の逃げる手引きをした。厨子王は姉を気遣いながらも逃げおうせたが、安寿は火責め水責めに苛み殺された。

厨子王は追っ手を逃れ、橋立の延命寺に逃げ込んだ。そして和尚の計らいで京都に入り、閑院右大臣.藤原公季に救われ文武両道に励んだ。厨子王は治安3年(1023)元服し、平政隆と名乗り、一家没落の経緯を朝廷に奏上し、判官政氏の罪はゆるされ、旧国をあたえられ、讒言者の領地は没収され、政隆に下賜された。

政隆は父を討った逆臣の追討を朝廷に願い、兵3千を与えられ、その兵を引き連れて岩城の地に戻り、塩谷城(いわき市東田町)において村岡重頼を征伐し、長年の宿願を果たした。京都に帰った政隆は、朝廷より丹後の国守に任命され、奴隷を解放し、人身の売買を禁じ、善政に励んだ。

政隆は、母の消息を訪ねていたが、あるとき片辺鹿野浦で、一人の盲目の女が鳥追い唄をうたっているのにめぐりあった。「あんじゅ恋しやホーラホイ ずしおう恋しやホーラホイ」。政隆はこれぞ母と知り駆け寄りすがりついた。うれし涙に霊しくも母の眼は開き、政隆は母を連れ戻り、孝養を尽くしたと云う。政隆は老後はいわきに戻り、平和な生活を送ったと云う。