きみまち阪は、県立自然公園になっており、秋田県有数の桜、ツツジ、紅葉の名所である。きみまち阪の下には米代川が流れ、対岸には七座山が鎮座する絶景の地である。

険しい山が米代川の川岸にまで迫り、「郭公坂」「馬上坂」「畜生坂」などと呼ばれ、羽州街道でも「徒歩道無し」として水上を正規の道に指定されるなど最大の難所とされていた。弘前の津軽氏が、一時、参勤交代でこの道を利用したことがあったが、藩主がこの地を無事に通り過ぎたことを伝えるだけのために弘前まで使者が遣わされたという。

慶応4年(1868)、戊辰戦争の際には、新政府側についた秋田久保田藩は、盛岡藩に大館城を攻略され、この地を防御地点に設定し盛岡勢を迎え撃った。秋田勢は兵の数でも武器の性能でも劣っていたが、地形を利用して援軍到着まで持ちこたえることができた。

また、明治2年(1869)に、函館戦争を戦い捕らえられた榎本武揚は、この地を網籠の中に入れられ川船で輸送された。その際、榎本は「渡米代川」と題した漢詩を詠い、自らの立場を嘆きながらこの地区の風景を絶賛している。

明治14年(1881)、明治天皇が東北巡幸のためこの地を訪れた。この時期、自由民権運動が各地に起こるなど、明治新政府の基礎はまだ固まってはおらず、列強諸国と対するためにも、早急な中央集権的な政権が必要とされていた。そのため、江戸幕府にかわる新政権が、天皇を中心とし、歴史的、民族的に正統性をもつものとし、民衆にアピールすることを目的として、地方の巡幸が行われた。

明治天皇の地方巡幸は97回行われたが、中でも、明治5年(1872)の近畿・中国・九州地方、明治9年(1876)の東北地方、明治11年(1878)の北陸・東海道地方、明治13年(1880)の中央道地方、明治14年(1881)の東北・北海道地方、明治15年(1885)の山陽道地方の巡幸は六大巡幸として、その期間は1か月半ないし2か月以上に達している。

この巡幸に際しては、道路の改修などのインフラ整備が行われ、それは地域の住民にとって負担でもあったが、その後の近代化にも資するものでもあった。また天皇を迎える中央から派遣された地方官の権威を高め、天皇が休憩・宿泊で立ち寄る地方行政機関や、かつての肝煎などの地方有力者の権威を高めることができ、地方での政権基盤は強固なものになった。

明治天皇は、明治 14 年(1881)7 月 30日に東京を出発し、北海道などをまわり、9月11日、青森から矢立峠を越えて大館に入り、翌日このきみまち阪のある二ツ井にいたった。この地の羽州街道はもともと米代川を舟で渡るルートが正式のものだったが、この東北巡幸に際し、山の先端を切り通して、緩やかな坂道が作られていた。

北国の巡幸とは言え夏の盛りの巡幸で、この地に到るまでに、すでに出発してから40日以上たっていた。残暑の中、坂道を登り、切通しを過ぎたすぐのところに休憩所がしつらえてあった。明治天皇がここで一息入れているとき、侍従がうやうやしく一通の手紙を持ってきた。その手紙は、美子(はるこ)皇后からのもので、明治天皇の到着の前に、この地で待っていたものだった。

手紙には、暑い最中の長期間の東北巡幸での天皇の体を気遣う歌がしたためてあった。

大宮の、うちにありても、あつき日を、いかなる山か、君はこゆらむ

この歌は天皇の心を動かしたようで、この地を「きみまち阪」と命名したという。

その後、明治22年(1889)にトンネルが完成し、明治34年(1901)には奥羽本線が開通、きみまち阪を通る者は少なくなったが、大正13年(1924)、きみまち阪公園が開園、昭和39年(1964)には、きみまち阪そのものが秋田県立自然公園に指定された。

このきみまち阪で明治天皇を待った美子皇后の歌が、天皇を思う恋文のようだと語られるようになり、現在この地は、恋人たちのデートスポットになっているという。

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