東北地方には南北朝期の争乱に関わる伝説が多く残っている。宮城県栗原市若柳の地に残る禰々麻と醍醐の伝説もその一つだ。

元弘3年/正慶2年(1333)、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたのち、北畠顕家は、後醍醐天皇を中心とした、建武の新政を補佐し、この年に正三位陸奥守となった。顕家は後醍醐天皇の皇子で、後の後村上天皇の義良親王を奉じ、陸奥の多賀城に下向し、東北地方の統治を始めた。

それ以降顕家は、東北各所を転戦し、陸奥の精鋭を率いて足利尊氏を一時は敗走させたが、その後南朝の勢力は衰退し、延元3年(1338)和泉の石津にて戦死した。

これを知らない顕家夫人と禰々麻、醍醐の姉弟は、父を訪ねて京より陸奥に向ったが、途中夫人は病没し、従者たちもはぐれ、残るは幼い姉弟と従者一人だけになってしまった。

それでも父恋しさのあまり、姉弟は草深い陸奥をさまよい歩き、冬が過ぎ、山河が緑がかったころ、父の消息をつかめないまま若柳の地に来た。若柳は、今も伊豆沼を始めとした大小の湖沼があるが、当時は一面の湿地帯で至る所に無数の湖沼があった。人家も少なく、道を踏み違え湿地帯に踏みこめば、抜け出すことは容易ではなかった。

この地の春は美しかった。草花は一気に芽吹き、葉を開き花を咲かせた。大小の湖沼は雪解け水をたたえ、陽の光を映していた。醍醐にはそれは幼い時に見た都の浄土庭園のように思えた。醍醐は旅の疲れからか、うつらうつらと湿地帯に迷い込んでしまった。

とうとう弟までもはぐれてしまった禰々麻は、醍醐を探しながら呆然とさまよい歩くうちに、一軒の農家に行き当たった。その農夫は父のことを知っており、それによると、禰々麻たちが都を出た時期に、父の顕家は入れ違いに兵を率い都に上り、討ち死にしたという。

禰々麻は母を失い、弟ともはぐれ、探し求める父もすでにこの世にないことを知り、あまりの悲しさに涙も出ず、呆然と弟が消えた湿地帯を眺めた。傍らには大きな沼があり、その先に陽が落ちようとしていた。野は赤く輝き、沼は夕雲を浮かべていた。禰々麻は、西の空に母と父の姿を見たような気がして、ふらふらと沼に入って行った。

その後、幾日かたって、弟の醍醐がこの沼地にさまよい、水面に浮かぶ姉の姿を見た。姉の姿を見た醍醐は、うれしさのあまり沼に飛び込み、そのはかない命を閉じてしまった。

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