初版20170302 155view
南部信直は、南部一族の中の名将、石川高信の長男であるが、三戸南部の当主、南部晴政に男子がいなかったために、晴政の長女を妻とし、晴政の養嗣子となった。このとき信直は12、3歳だった。当時の信直は、人の話をよく聞く聡明な少年であったらしく、当時の南部一族の期待の公子であり、この婚姻は南部一族の誰にも祝福されたものだったろう。
三戸南部は、北奥羽の雄として、秋田安藤氏と鹿角を巡り争い、また津軽為信ともことを構えており、信直は南部宗家の嗣子としてその名将振りを発揮していった。しかしその後、元亀元年(1570)、晴政に実子が誕生し、次第に信直は疎まれるようになった。
元亀3年(1572)には、信直は晴政から襲撃され、この頃から信直が晴政に対して憎悪の念を持ち始めたとしても不思議ではない。利直の誕生の前に、この正室の晴政娘との間には長女が誕生しており、そして天正4年(1576)に、後に盛岡藩初代藩主となる利直の誕生となる。
この正室は、元来体が丈夫ではなく、たびたび流産していた。公式には、この長女の千代姫を産んだ後、その産後の肥立が悪く、三戸で亡くなったとなっており、また、利直の実母は、家臣泉山古康の娘となっている。しかし他の文書等で、それには多くの矛盾も見られ、ここではその中にある歴史の迷宮に分け入ってみる。
利直が生まれた6年前には、南部晴政には実子が生まれていた。それまでの娘婿の信直に後継をと考えていた晴政が、実子を後継にと考え始めたのは当然の成り行きだった。元亀3年(1572)には晴政は信直の暗殺を試み失敗した。しかし、すでにこの時期に、南部一族には、名将ぶりを発揮していた信直に味方するものも多くなっており、晴政はそれ以降、強硬策はとれなかった。
そのような時期に、正室の晴政の娘が、無事利直を産んだ。晴政はこの慶事を機に、信直と和解しようと考えた。晴政は信直のもとへ実子の鶴千代とともに訪れ、産まれた利直に彦九郎という名前を授け、成人後は、自分の一字を用い、晴直と名乗るようにとも付け加えた。この出来事は、晴政と信直の不和を心配していた南部一族の者たちを大いに喜ばせた。
しかし信直は、これを苦々しく思った。舅の晴政は、自分の実子に家督を継がせようとすでに決めており、利直の誕生を祝いに、自分の実子の鶴千代を伴い出かけているのも、南部の家督は鶴千代とし、信直とその子の利直は、南部の柱石として重く遇するということをあらわそうとしたのではないか。この慶事を境に、これまでの確執を収めようとしたのではないかと思った。
南部晴政は、産まれた利直に自分の幼名「彦」の字を与え、成人してからの名前にまで「晴」の字を与えている。このことにより、晴政は南部の一族に、一族間での上下関係を確認させ、実子鶴千代を脇におくことで、家督を鶴千代とすることの布石をおいたのだろう。しかし信直は、この慶事における晴政の行動に対しては、苦々しい思いを持った。
その数日後、晴政から呼び出された信直は、南部の後継を鶴千代とし、その後見を信直と九戸政実とする旨を申し渡された。これは受け入れざるを得ないものではあった。信直は晴政の代わりに数々の戦いに出陣し、南部を実質的に担っているのは自分であるとの自負もあった。また晴政は、これまで幾度か刺客を向けて自分を亡き者にしようとしてきた。そのような思いもあり信直は鶴千代の後見を辞退した。晴政はこれに対し「謀反を企てる気か」と激怒し席を立った。
これまでのいきさつから、晴政も信直も互いに含むところは大いにあり、そう簡単に雪解けするようなものではなかった。互いに疑心暗鬼となり、館を兵で固め、一触即発の状況になった。そのような中、産後の肥立ちが悪く、床から離れられないでいた正室の晴政娘が、父と夫の確執に心を痛めながら没した。
信直が晴政娘を妻とし養嗣子になったのは、12、3歳の時である。夫婦といってもままごとのようなもので、はたから見て微笑ましいものであったろう。それが長じるにつれ、信直と舅の晴政の間は険悪なものになっていく。しかし、この時代の女性としては、南部宗家の嫡女としての意識もあったに違いない。信直の正室はその間にあり、死の間際まで苦しんだに違いない。
その数日後、葬儀が行われた。葬儀の喪主は信直で、晴政も参列した。しかしその葬儀は異様だった。読経が流れる寺の境内のいたるところに、信直の兵たちがつめ、中には火縄に火を灯した、ままの銃を手にするものまでいた。葬儀の席の上座、信直の隣には、生まれて間もない利直をしっかりと抱きしめた側室の泉山古康の娘が震えながら座っていた。
祭壇には晴政娘の戒名が書かれた位牌が置かれていたが、その戒名はなんと「異貌清公大禅定尼」だった。この戒名には、信直の晴政に対するどす黒い憎悪が感じられた。晴政は祭壇で手を合わせながらワナワナと怒りに震えていた。その日のうちに信直は一族の前で、晴政の家督を継ぐことをおのずから辞すことを宣言し、三戸を去り田子城に戻ってしまった。
この6年後の天正10年(1582)、南部晴政が没し、その跡は実子の晴継(鶴千代)が12歳で継いだ。しかしその晴継は、父の葬儀を終わらせて三戸城に帰城する途上、暴漢に襲われて一命を落とした。これで晴政の思いは断ち切られ、その後継を巡り、三戸南部は大混乱となった。
晴政の長女の娘婿であった信直と、次女の娘婿である九戸政実の実弟の九戸実親がその有力な候補となり、南部一族は大きく二つに割れた。これを八戸政栄と組んだ北信愛が武力をちらつかせながら、強引に信直の後継の道を開いた。しかしこれがその後の九戸の乱につながっていくことになる。
信直は、その憎悪の対象になってしまった正室の晴政娘を、自分の嫡男の生母として扱うことはできなかった。そのため記録上、後室となった泉山古康娘を生母とした。信直の晴政への憎悪は、南部宗家の嫡女としての正室に「異貌…」の戒名をつけさせ、嫡男利直の生母の位置も奪ってしまった。哀れなるは信直正室、南部晴政娘である。
しかしその後の南部藩のこのことに関する記録には齟齬が多くあり、徹底していない。それは信直の正室への僅かな未練と見ることもできる。
「異貌…」と戒名された正室の葬地は不明であり、晴政夫妻、その実子の晴継、その生母の供養碑もまた不明である。しかし南部町には、南部氏に関わる墓として人知れず守られてきた古塚が残っており、その地に眠っているのかもしれない。