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北部王家六代義祥の養子となり北部王家の正当性を握った蛎崎氏に対して、南部氏は、うかつに手出しすることはできず、またこの当時南部氏は、十三安東氏、湊安東氏、小野寺氏など各地で対立していたため、兵を容易に動かすことができなかった。この間に蔵人は安東氏やアイヌ勢力、恐山の仏教勢力などと結び、特に、津軽復帰を狙う蝦夷地の安東氏を背景としたアイヌ兵たちが下北に続々集まっていた。また、津軽や下北に取り残されていた安東勢も続々とかけつけた。

これらの情報は、逐一、八戸根城の南部政経の元にもたらされていた。康正2年(1456)春、政経は城内の大広間に、家臣一同を集め北部王家についての大評定を開いた。その結果、「蠣崎蔵人は逆臣である、許すべからず、一日も早く討伐すべし。」というのが、大方の意見であった。しかし、政経が簡単にうなずき手を出せなかったのは、一応相手は天皇の皇子義祥卿の養子になっており、加えて、「南朝再興」という大義名分の旗印を掲げていることだった。政経は、まずは幕府に訴え出て、勅許を得たのち、蠣崎の討伐に乗り出すことと決め、取りあえず蠣崎勢に対する備えを固めさせた。

8月にはいると、蠣崎勢は下北半島を南下し始め、前線では、南部軍と蠣崎軍との間で小競り合いが始まった。南部勢は政経の大方針で、院宣が届くまでは防衛に徹するしかなかった。蠣崎勢はそれをいいことに、さかんに戦を仕掛けてきた。蠣崎勢にはアイヌ兵が多くおり、また中には大陸の韃靼からの傭兵も混じっていた。その武器や戦法は、南部勢の見慣れぬもので、アイヌ兵は毒矢を用い、浅い傷でも南部軍の兵士は死に至った。またある時は、火薬の入った筒を牛の角に括り付け、これを先頭にしての「火牛作戦」で南部軍の前線が突破されることもあった。九月に入ると、ついには野辺地の金鶏城が占領され、そこを基地に九月末には南部氏一族が守る七戸城まで蠣崎勢の手中に落ちてしまった。

隠忍自重の戦いを続ける南部勢に、康正二年(1456)11月、「朝敵、蠣崎蔵人信純を追討せよ」との後花園天皇からの正式な勅許が下りた。早速、政経は配下の南部勢全軍に対し、蠣崎軍への攻撃命令を発した。

八戸根城から、南部の軍勢が出陣し、蠣崎勢に占領されていた七戸城の攻撃を開始した。南部勢が勅許をえて官軍となったことを知った蠣崎勢は戦意を失い、七戸城を戦わず開城した。南部勢はそのまま野辺地に向かい進軍したが、すでに寒さは厳しく雪になり、ついには猛吹雪となった、南部勢は、雪の中で進むも退くも出来なくなってしまった。これに対して、蠣崎勢は、雪に慣れたアイヌの軍勢を前に出し、またもや火牛戦法で角に火薬の筒を括り付けた暴れ牛を先頭に、南部軍に攻撃を仕掛けてきた。南部勢はこの戦いで多数の死傷者を出し、七戸城に退いた。

吹雪での敗戦から年が改まった康正三年(1457)、南部勢は奪還した七戸城を前線基地とし、陣容を建て直し、偵察を兼ねた戦いを一月から二月にかけて繰り返していた。しかし、この戦いは一進一退で、有効な手立ては見つからず、新たな作戦の必要性を感じていた。その作戦が海上からの奇襲攻撃だった。八戸から下北の「波多湊」現在の大畑に上陸させ、蠣崎城を奇襲攻略するというものだった。その年の二月末、南部氏の船団五十隻ほどが八戸を出陣した。

ところが、波多湊も間近と思われた頃、海は大しけになった。船は木の葉のように波にもまれ、帆柱は折れ、舵を流された船もあったが、幸いなことに嵐は静まり全船大間の浜に漂着した。

地元の者に聞けば、大間から間道を通り山を越せば、蠣崎城の背後に出られるという。南部勢は勇躍蠣崎城に向かった。一方蠣崎勢は、南部勢が八戸から出陣し奇襲攻撃を行うことを察知し逐一監視していたが、南部の船団が大しけに巻き込まれ、一隻残らず姿を消したとの報告を受けており遭難したものと判断していた。そのため、蠣崎勢は守りを固めるどころか、南部勢全滅を喜ぶ祝宴が始まっていた。その翌日の明け方、南部勢が蠣崎城の背後に突然あらわれた。

南部勢は油断しきっていた蠣崎城の守りを破り城内に進入した。南部勢からは次々に火矢が射られ、蠣崎勢は大混乱に陥った。その混乱に乗じ、南部勢は総攻撃を開始した。蠣崎城の本郭御殿めがけて、一斉に火矢が射かけられ、贅をこらし「錦帯城」とも呼ばれ偉容を誇った御殿もたちまちにして炎と煙に包まれた。蠣崎勢は逃げ去り、残ったものも降伏し、その日の午前中に大勢は決した。

蠣崎蔵人は、家族と少数の家臣らとともに、抜け道を通り、下北半島西南端の九艘泊に急いだ。用意周到な蔵人は、いざという時のためにその地に九艘の船を置いていた。北の道も東の道も南部勢に抑えられており、西に逃れるしかなかった。その九艘泊より先には道はなかったが、海路を逃れれば、南部勢に追う手段はないはずだった。

南部政経は、蠣崎城攻略の経過、及び下北半島一円を平定した旨を室町幕府を通じ朝廷に報告した。南部氏はその恩賞として北部王家が支配領有していた下北の田名部三千石の領地は、すべて八戸南部氏の領地として下賜し、正式に八戸の根城南部家の支配地となった。

一方、蝦夷地へ辛うじて逃れた蠣崎蔵人信純は、その後、「コシャマインの乱」を鎮め、のちに花沢館に入り「松前藩」の祖となったと伝えられる。