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初版20170228 377view

下北半島の西側の九艘泊には、源義経主従が九艘の船にのり蝦夷地に渡ったという伝説が残っている。しかしこれは恐らくは、この地の東およそ10kmの地にあった蠣崎城落城に関わるものではと思われる。

蛎崎氏の祖の武田信義は、甲斐源氏武田氏の流れで、元弘3年(1333)、南部師行に従い陸奥に下向した。南部氏は安東氏一族が支配していた下北の地を、その内紛に乗じて安東氏を駆逐し、蠣崎氏の祖は赤星氏とともに下北に入った。

貞和4年(1348、正平3年)、南朝方であった八戸南部氏は、護良親王の遺児良尹王を庇護し、良尹王はこの地の順法寺城に入り北部王家とされ、蛎崎氏は赤星氏とともに宮家の与力に組み込まれた。

蛎崎蔵人信純が蠣崎氏を継いだ時期は、北奥羽の状況は混とんとしていた。特に、津軽統一に乗り出した南部氏と十三湊の安東氏は一触即発の状況だった。しかしそのような中でも、蛎崎蔵人は蝦夷地との交易の都合上もあり、十三湊安東氏とはよしみを通じており、北の果ての下北の地は平穏だった。

また北部王家との関係もあり、蝦夷地との交易による富を背景に、南部氏から独立した形で朝廷との接触も行っていた。蛎崎蔵人にとって北部王家は、後醍醐天皇の血筋とはいえ、100年ほどの間に既に五代を重ねていた。南朝復興の望みもない中では、蔵人からすればわずかな朝廷との接点があるだけで、周辺の他の土豪と変わるものではなかった。

南部氏は南部義政の代のとき、当時の安東氏当主の盛季と婚姻関係を結んでいた。しかし義政が没しその弟である南部政盛が跡を継ぐと、嘉吉3年(1443)頃、政盛は盛季に見参のためと称し福島城に入り、奸計をもって一晩で福島城を奪取した。福島城を追われた盛季は蝦夷地に逃れた。

この事件は蛎崎蔵人にとっては衝撃的だった。十三湊に蝦夷地との交易を背景に大きな勢力を築いていた安東氏が、いともたやすく蝦夷地へ追いやられたのだ。強大に見える南部氏も、出羽安東氏や小野寺氏と対立し、南は斯波氏や葛西氏と対立しており、決して盤石なものではない。蛎崎蔵人の野望は大きくふくらんだ。

当時の北部王家の当主は義純王だった。順法寺に新しい館を建て、内部は金銀で飾られ、それは豪華なものだった。義純はこの新しい館に、京から足利家養女を妻に迎え、京から呼んだ楽人達に雅楽を奏でさせ、この館を「花の御所」と呼ばせ贅沢三昧に暮らしていた。またこのような北朝方に臣下の礼を取るような義純の行為に対して、一族郎党の中にも快く思わない者も多かった。

特に、隠居生活を送っていた齢六十歳を越す、北部王家三代義祥(よしやす)は、義純をこころよく思ってはいなかった。強硬に南朝再興を主張する義祥は、南部家の意向により早々に隠居させられていた。南部家からすれば、すでに南北朝が合一してからの流れを考えれば、義祥の主張は現実的ではなかった。しかしそれでも義祥は南朝の正当性を主張し、折あるごとに義純と言い争いになっていた。

蠣崎蔵人の野望は抑えがたいものになっており、北部王家のこのような内紛を利用しない手はないと思えた。南部家の頸木の下で、この辺境の地で血筋だけを頼りとし、沈みゆく北部王家と最後までともにありたいとは思っていなかった。しかしその血筋は利用価値は高く、それもあって義純の妹を妻に迎えていた。その血筋を利用し、北奥羽の地で、安東氏や北畠氏を糾合し、その旗頭として南部氏から独立し、一大勢力を築くことは可能に思えた。蠣崎蔵人は「南朝復興」を大義名分とし義祥をたて、義純をのぞくことを決意した。

蔵人は、文安5年(1448)5月、蠣崎城の修築祝いを名目に、義純を舟遊びに誘い出した。城内での宴では、都より招かれた楽人達の音曲が奏でられ、美女達が舞い、美酒が振る舞われた。その後、一行は御座船にのり、大湊湾の沖に漕ぎ出した。御座船は美しく錦で飾られ、周りを五色の幕が張り巡らされ、数隻の護衛の舟がしたがった。御座船の上でも宴は延々と続けられた。

御座船が遙か沖合いに出たころ、突如として御座船に異変が発生した。御座船の底が割れ、あっという間に海水が溢れ、船は傾き、沈み始めた。もちろんこれは蔵人が仕掛けたものだった。見る見るうちに船は海に沈み、御座船に乗っていた当主義純を始め、長男義元、次男義久、さらに北部王家の重臣赤星修理太夫ほか家臣らが溺死した。さらに同じ時期、義純の孫の一歳にもならない茂丸が急死した。

この結果を見れば、この事件の裏側に蠣崎蔵人がいることは明らかだったが、唯一残った血筋である義祥を背景にした蔵人に異議をたてることができる者は宇曽利郷にはすでにいなかった。結局は義祥が再び家督を嗣ぐことを決定し、高齢であるため執政は蔵人が行うことが決定した。また義祥に万一のことがあった場合のことを考え、義純の妹婿にあたる蔵人が、義祥の養子となった。そして北部王家六代義祥を背景に、蔵人は「南朝の再興」と云う大義名分を旗印に、義兵を挙げることを宣言した。