下北半島の西側の九艘泊には、源義経主従が九艘の船にのり蝦夷地に渡ったという伝説が残っている。しかしこれは恐らくは、この地の東およそ10kmの地にあった蠣崎城落城に関わるものではと思われる。

蛎崎氏の祖の武田信義は、甲斐源氏武田氏の流れで、元弘3年(1333)、南部師行に従い陸奥に下向した。南部氏は安東氏一族が支配していた下北の地を、その内紛に乗じて安東氏を駆逐し、蠣崎氏の祖は赤星氏とともに下北に入った。

貞和4年(1348、正平3年)、南朝方であった八戸南部氏は、護良親王の遺児良尹王を庇護し、良尹王はこの地の順法寺城に入り北部王家とされ、蛎崎氏は赤星氏とともに宮家の与力に組み込まれた。

蛎崎蔵人信純が蠣崎氏を継いだ時期は、北奥羽の状況は混とんとしていた。特に、津軽統一に乗り出した南部氏と十三湊の安東氏は一触即発の状況だった。しかしそのような中でも、蛎崎蔵人は蝦夷地との交易の都合上もあり、十三湊安東氏とはよしみを通じており、北の果ての下北の地は平穏だった。

また北部王家との関係もあり、蝦夷地との交易による富を背景に、南部氏から独立した形で朝廷との接触も行っていた。蛎崎蔵人にとって北部王家は、後醍醐天皇の血筋とはいえ、100年ほどの間に既に五代を重ねていた。南朝復興の望みもない中では、蔵人からすればわずかな朝廷との接点があるだけで、周辺の他の土豪と変わるものではなかった。

南部氏は南部義政の代のとき、当時の安東氏当主の盛季と婚姻関係を結んでいた。しかし義政が没しその弟である南部政盛が跡を継ぐと、嘉吉3年(1443)頃、政盛は盛季に見参のためと称し福島城に入り、奸計をもって一晩で福島城を奪取した。福島城を追われた盛季は蝦夷地に逃れた。

この事件は蛎崎蔵人にとっては衝撃的だった。十三湊に蝦夷地との交易を背景に大きな勢力を築いていた安東氏が、いともたやすく蝦夷地へ追いやられたのだ。強大に見える南部氏も、出羽安東氏や小野寺氏と対立し、南は斯波氏や葛西氏と対立しており、決して盤石なものではない。蛎崎蔵人の野望は大きくふくらんだ。

当時の北部王家の当主は義純王だった。順法寺に新しい館を建て、内部は金銀で飾られ、それは豪華なものだった。義純はこの新しい館に、京から足利家養女を妻に迎え、京から呼んだ楽人達に雅楽を奏でさせ、この館を「花の御所」と呼ばせ贅沢三昧に暮らしていた。またこのような北朝方に臣下の礼を取るような義純の行為に対して、一族郎党の中にも快く思わない者も多かった。

特に、隠居生活を送っていた齢六十歳を越す、北部王家三代義祥(よしやす)は、義純をこころよく思ってはいなかった。強硬に南朝再興を主張する義祥は、南部家の意向により早々に隠居させられていた。南部家からすれば、すでに南北朝が合一してからの流れを考えれば、義祥の主張は現実的ではなかった。しかしそれでも義祥は南朝の正当性を主張し、折あるごとに義純と言い争いになっていた。

蠣崎蔵人の野望は抑えがたいものになっており、北部王家のこのような内紛を利用しない手はないと思えた。南部家の頸木の下で、この辺境の地で血筋だけを頼りとし、沈みゆく北部王家と最後までともにありたいとは思っていなかった。しかしその血筋は利用価値は高く、それもあって義純の妹を妻に迎えていた。その血筋を利用し、北奥羽の地で、安東氏や北畠氏を糾合し、その旗頭として南部氏から独立し、一大勢力を築くことは可能に思えた。蠣崎蔵人は「南朝復興」を大義名分とし義祥をたて、義純をのぞくことを決意した。

蔵人は、文安5年(1448)5月、蠣崎城の修築祝いを名目に、義純を舟遊びに誘い出した。城内での宴では、都より招かれた楽人達の音曲が奏でられ、美女達が舞い、美酒が振る舞われた。その後、一行は御座船にのり、大湊湾の沖に漕ぎ出した。御座船は美しく錦で飾られ、周りを五色の幕が張り巡らされ、数隻の護衛の舟がしたがった。御座船の上でも宴は延々と続けられた。

御座船が遙か沖合いに出たころ、突如として御座船に異変が発生した。御座船の底が割れ、あっという間に海水が溢れ、船は傾き、沈み始めた。もちろんこれは蔵人が仕掛けたものだった。見る見るうちに船は海に沈み、御座船に乗っていた当主義純を始め、長男義元、次男義久、さらに北部王家の重臣赤星修理太夫ほか家臣らが溺死した。さらに同じ時期、義純の孫の一歳にもならない茂丸が急死した。

この結果を見れば、この事件の裏側に蠣崎蔵人がいることは明らかだったが、唯一残った血筋である義祥を背景にした蔵人に異議をたてることができる者は宇曽利郷にはすでにいなかった。結局は義祥が再び家督を嗣ぐことを決定し、高齢であるため執政は蔵人が行うことが決定した。また義祥に万一のことがあった場合のことを考え、義純の妹婿にあたる蔵人が、義祥の養子となった。そして北部王家六代義祥を背景に、蔵人は「南朝の再興」と云う大義名分を旗印に、義兵を挙げることを宣言した。

これに対して南部氏は、名目的には北部王家の正当性を握っている蛎崎氏に対して、うかつに手出しすることはできず、またこの当時南部氏は、十三安東氏、湊安東氏、小野寺氏など各地で対立していたため、兵を容易に動かすことができなかった。この間に蔵人は安東氏やアイヌ勢力、恐山の仏教勢力などと結び、特に、津軽復帰を狙う蝦夷地の安東氏を背景としたアイヌ兵たちが下北に続々集まっていた。また、津軽や下北に取り残されていた安東勢も続々とかけつけた。

これらの情報は、逐一、八戸根城の南部政経の元にもたらされていた。康正2年(1456)春、政経は城内の大広間に、家臣一同を集め北部王家についての大評定を開いた。その結果、「蠣崎蔵人は逆臣である、許すべからず、一日も早く討伐すべし。」というのが、大方の意見であった。しかし、政経が簡単にうなずき手を出せなかったのは、一応相手は天皇の皇子義祥卿の養子になっており、加えて、「南朝再興」という大義名分の旗印を掲げていることだった。政経は、まずは幕府に訴え出て、勅許を得たのち、蠣崎の討伐に乗り出すことと決め、取りあえず蠣崎勢に対する備えを固めさせた。

8月にはいると、蠣崎勢は下北半島を南下し始め、前線では、南部軍と蠣崎軍との間で小競り合いが始まった。南部勢は政経の大方針で、院宣が届くまでは防衛に徹するしかなかった。蠣崎勢はそれをいいことに、さかんに戦を仕掛けてきた。蠣崎勢にはアイヌ兵が多くおり、また中には大陸の韃靼からの傭兵も混じっていた。その武器や戦法は、南部勢の見慣れぬもので、アイヌ兵は毒矢を用い、浅い傷でも南部軍の兵士は死に至った。またある時は、火薬の入った筒を牛の角に括り付け、これを先頭にしての「火牛作戦」で南部軍の前線が突破されることもあった。九月に入ると、ついには野辺地の金鶏城が占領され、そこを基地に九月末には南部氏一族が守る七戸城まで蠣崎勢の手中に落ちてしまった。

隠忍自重の戦いを続ける南部勢に、康正二年(1456)11月、「朝敵、蠣崎蔵人信純を追討せよ」との後花園天皇からの正式な勅許が下りた。早速、政経は配下の南部勢全軍に対し、蠣崎軍への攻撃命令を発した。

八戸根城から、南部の軍勢が出陣し、蠣崎勢に占領されていた七戸城の攻撃を開始した。南部勢が勅許をえて官軍となったことを知った蠣崎勢は戦意を失い、七戸城を戦わず開城した。南部勢はそのまま野辺地に向かい進軍したが、すでに寒さは厳しく雪になり、ついには猛吹雪となった、南部勢は、雪の中で進むも退くも出来なくなってしまった。これに対して、蠣崎勢は、雪に慣れたアイヌの軍勢を前に出し、またもや火牛戦法で角に火薬の筒を括り付けた暴れ牛を先頭に、南部軍に攻撃を仕掛けてきた。南部勢はこの戦いで多数の死傷者を出し、七戸城に退いた。

吹雪での敗戦から年が改まった康正三年(1457)、南部勢は奪還した七戸城を前線基地とし、陣容を建て直し、偵察を兼ねた戦いを一月から二月にかけて繰り返していた。しかし、この戦いは一進一退で、有効な手立ては見つからず、新たな作戦の必要性を感じていた。その作戦が海上からの奇襲攻撃だった。八戸から下北の「波多湊」現在の大畑に上陸させ、蠣崎城を奇襲攻略するというものだった。その年の二月末、南部氏の船団五十隻ほどが八戸を出陣した。

ところが、波多湊も間近と思われた頃、海は大しけになった。船は木の葉のように波にもまれ、帆柱は折れ、舵を流された船もあったが、幸いなことに嵐は静まり全船大間の浜に漂着した。

地元の者に聞けば、大間から間道を通り山を越せば、蠣崎城の背後に出られるという。南部勢は勇躍蠣崎城に向かった。一方蠣崎勢は、南部勢が八戸から出陣し奇襲攻撃を行うことを察知し逐一監視していたが、南部の船団が大しけに巻き込まれ、一隻残らず姿を消したとの報告を受けており遭難したものと判断していた。そのため、蠣崎勢は守りを固めるどころか、南部勢全滅を喜ぶ祝宴が始まっていた。その翌日の明け方、南部勢が蠣崎城の背後に突然あらわれた。

南部勢は油断しきっていた蠣崎城の守りを破り城内に進入した。南部勢からは次々に火矢が射られ、蠣崎勢は大混乱に陥った。その混乱に乗じ、南部勢は総攻撃を開始した。蠣崎城の本郭御殿めがけて、一斉に火矢が射かけられ、贅をこらし「錦帯城」とも呼ばれ偉容を誇った御殿もたちまちにして炎と煙に包まれた。蠣崎勢は逃げ去り、残ったものも降伏し、その日の午前中に大勢は決した。

蠣崎蔵人は、家族と少数の家臣らとともに、抜け道を通り、下北半島西南端の九艘泊に急いだ。用意周到な蔵人は、いざという時のためにその地に九艘の船を置いていた。北の道も東の道も南部勢に抑えられており、西に逃れるしかなかった。その九艘泊より先には道はなかったが、海路を逃れれば、南部勢に追う手段はないはずだった。

南部政経は、蠣崎城攻略の経過、及び下北半島一円を平定した旨を室町幕府を通じ朝廷に報告した。南部氏はその恩賞として北部王家が支配領有していた下北の田名部三千石の領地は、すべて八戸南部氏の領地として下賜し、正式に八戸の根城南部家の支配地となった。

一方、蝦夷地へ辛うじて逃れた蠣崎蔵人信純は、その後、「コシャマインの乱」を鎮め、のちに花沢館に入り「松前藩」の祖となったと伝えられる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です