現在の三沢基地の東側の淋代海岸は、昭和6年(1931)10月、二人のアメリカ青年、ヒューハーンドンとクライドバングボーン両氏が、ミスビードル号で太平洋無着陸横断飛行に成功した時の出発地である。

昭和2年(1927)にリンドバークによる大西洋横断飛行が成功し、太平洋無着陸横断飛行に懸賞金がかけられたこともあり、太平洋横断飛行レースが始まった。

当時の日本には、多量のガソリンを積んだ重い飛行機が離陸できる飛行場がなかったため、粘土と砂鉄の混じった硬くて非常に広い砂浜があり、最短の飛行コースがとれることなどから、三沢のこの海岸が注目された。

クライド・パングボーン(35歳)とヒュー・ハーンドン(26歳)の二人は、最初、世界早周り飛行記録短縮に挑戦したが、天候その他いろいろな悪条件が重なり、ハバロフスクで断念した。ちょうどこのとき、太平洋無着陸横断飛行に賞金がかかっていることを知り、入国許可を持たず、急遽日本に飛来し立川飛行場に着陸した。当然のことながら機体と身柄を拘束され、罰金を科され釈放されたものの、、横断飛行の許可は下りなかった。

幾度かの外交交渉と、たまたま来日したリンドバークの取り成しなどもあって、なんとかOKは出たが、「二度と日本へは戻らない」という条件付きだった。二人はミスビードル号に乗り出発地となる三沢の淋代に飛来してからは、現地の人々は、ここから世界記録を目指して飛び立とうとする外国の見知らぬ人々に暖かく接し、成功を祈り協力を惜しまなかった。

三沢前村長を先頭に、青年団は、砂地の滑走路に厚い杉板を敷き並べ、幅1.8m、長さ30mの滑走台を造ったり、機の不寝番をしたり、ガソリンの輸送と積み込み、機体の整備、宿泊の世話などに尽力した。また、三本木で余生を送っていた退役海軍少佐が通訳と助言をかってでて、両飛行士につきっきりだった。

出発に際して二人の飛行士の衣食の世話をした前村長の娘のチヨさんは、機内食として、サンドイッチ、鶏の揚げ物などの他に、りんご紅玉20個を包んで持たせた。ドラム缶18本分のガソリンを積み込み、極端に重くなったミス・ビードル号は、村人たちの不安と歓声の中、青年団が整備してくれた滑走路をはしり、なんとか離陸に成功した。

ミスビードル号は、燃料を節約するために、予定通り途中で車輪を捨てて飛行を続けた。着陸は胴体着陸する予定だった。苦労の末に、太平洋沿岸時間の5日午前1時、カナダのバンクーバー島標識灯を確認した。しかし予定していた地は霧が深く着陸が不可能だった。出発から40時間を経過しており、翼は凍り付き、さらに燃料もかなり減少しており、予定にはなかったウェナッチに着陸することを決めた。

アマチュア無線や新聞のニュースなどで、ミスビードル号がアリューシャン列島上空を通過し米国本土に近づきつつあるという情報を知って、人々は凍てつくような夜中にもかかわらず、ウエナッチの丘の上にある小さな飛行場に集まっていた。

10月5日の早朝、オレンジカラーのミスビードル号は、機体スピードを失速するくらいまで下げ、滑走路の端に入るとエンジンを切り機首をアップさせて胴体を滑らせた。土煙を上げてつんのめるようにしてテールが持ち上がったが、すぐまた後ろに倒れ、左翼を地面にこすって機体は止まった。機体の損傷もわずかで見事な胴体着陸だった。41時間13分をかけ、太平洋無着陸横断飛行が成功した瞬間だった。

ウェナッチ市は大変な騒ぎになり、記念のパレードが盛大に行われ、翌日はシアトルでも実施された。さらにニューヨークでは市長主催の歓迎会も行われた。

ミスビードル号の中には、食べ残された真っ赤なリンゴの紅玉が五つ残っていた。パングボーンが「日本からのお土産」とおどけた調子でこのりんごを母親に渡したことが報道され、この五つのりんごはたちまち町の話題になった。ウェナッチ市はアメリカのりんごの大産地であり、このお礼にとリチャードデリシャスの苗木5 本が、青森県に贈られた。

このリンゴは、昭和10年(1935)頃から県内各地に接穂として配布されるようになり、昭和16年までには、10,227本に達したという。

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