この須賀川の暮谷坂には、三千代姫の悲しい話が今に伝えられている。

須賀川の地は二階堂氏の所領だったが、二階堂氏の有力な一族が代官として代々この地を治めていた。しかし京の都が乱れ始めていた時期、宗家の二階堂為氏が、この地を本領として二階堂氏を立てようと、一族を引き連れて移ってきた。

三千代姫の父親の治部大輔は、須賀川城にありこの地を治めていたが、自分にとって代わる存在の二階堂為氏の下向は、治部大輔にとって面白いものではなく、なんだかんだと理由をつけて、若い為氏を城に入れることはなかった。

激しく怒る家臣をなだめ、為氏はやむなく、この地の古城の愛宕山城に入った。家臣らはみな「治部大輔を討つべし」と憤ったが、これまでの長きにわたってこの地を治めてきたのは治部大輔であり、突然下向した為氏に反発する気持ちも分からないわけではなく、為氏は穏便にことを済ませたかった。

一族の内に、為氏のこの気持ちを汲む者があり、治部大輔の許に幾度か足を運び、治部の娘の三千代姫を娶ることを為氏に勧めた。そうすることにより治部大輔は為氏の岳父となり、子でも生まれれば、治部も打ち解けて、一族のものとして為氏を支えてくれるだろうとの計らいだった。為氏も治部も両家和合のためこれを受け入れ、三千代姫は為氏に嫁いだ。

三千代姫は教養深く、奥州でも屈指の美女だった。若い為氏と三千代姫は、この地の愛宕山城で仲睦まじく暮らした。三千代姫との暮らしは穏やかで温かいものだった。治部大輔との確執もわすれ、城地の回復も進まなかった。しかし一族の長としてそれではすまず、家臣の中には中国の「傾城の美女」を引き合いに出し諫言する者もおり、為氏自身も家臣たちの言葉を入れ、身を切る思いで三千代姫を離縁した。

父と夫の狭間で進退窮まった三千代姫は、城を出でこの暮谷沢の涙橋にさしかかると、はらはらと涙を流し、乳母や従侍ともどもこの橋の袂で自害した。辞世の歌は

人とわば、岩間の下の涙橋、流さでいとも、くれや沢とは

15歳だったと伝えられる。

この事件を発端とし、為氏方と治部大輔方の攻防は本格化し、為氏は須賀川城攻めを開始した。戦いは激戦となり、一時は為氏も討死するかと思うほどの激しい戦いが繰り広げられたが、ついに治部大輔は城に火を放ち、為氏方の勝利に帰した。

この坂を見下ろす高台には、この三千代姫やともに自害した従者を弔う石碑と、姫の像を納めた堂が建てられている。

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