2012/11/04

国道7号線を青森方向に走り浪岡町に入るとすぐに城址の表示があった。そこから7号線を東に入り、1.5kmほどの所に「浪岡城」の標柱があった。

浪岡城は、南北朝期に奥羽の軍勢を組織し、度々足利尊氏を京都から追い落とし、さらに戦況が不利になってからも各地を転戦し、北朝方の幕府勢を悩ませた北畠氏が遂の本拠とした城だ。この地に落ち着くまでは多くの艱難辛苦があったはずで、それは伝説として東北一円に広がっている。南北朝期以降、戦国期に至る東北の歴史は、南朝方として駆け巡った北畠氏の事績に大きく関わっていると言っても過言ではないだろう。

北畠氏は、南朝方の雄であった南部氏の庇護を受けて、この地に落ち着いたのだろう。しかしそれは、南朝の再起を期しての仮のものであったはずだ。しかし、時代が進み、武家社会が確立し、さらに激動の戦国期に入って行く中で、公家としての北畠氏はその権威を維持しながらも、いやおうなく武家としてこの地域に武威を張って行く事になる。

標柱のところから入って行くと、そこは広々とした公園になっていた。地形的には平城だったはずだが、それにしても城跡らしい形跡がない。東側が一段高くなっており、南側に川が流れている。人工的と思われる段築があり、小さいながら堀跡らしい地形もある。写真を撮る。しかし説明板もなくどうにも納得がいかない。

ここまでは公園内の道は舗装されていたが、その先は舗装は切れて、道も狭く底をこするような道だ。しかし納得のいかないままで引き下がるわけにはいかない。車に乗り南側のダートな道を奥へと乗り入れた。

すると、公園とは明らかに異なる空間に出た。紛れもない城跡だ。馬場の様な広い空間の先に、平城ながら城塁のように高い土壇が見える。解説板もある。多少がっかりしていたこともあり、身内が震えるような興奮を覚えた。解説板を見れば、城域全体が水堀で区画された水城で、公園から見た段築は、この城のほんの西のはずれの郭だったようだ。

しかし、この城の興奮は、まだほんの手始めに過ぎなかった。

朝に降っていた雨の影響で、足元の草は濡れ、靴の中はすでにぐしゃぐしゃだったが構うことはない、はやる気持ちで奥へ進んだ。正面の城塁を上ると広々とした郭跡が広がっている。説明版には内郭とあり、この城の本郭なのだろう。その先はどうなっているのか、カメラのシャッターを切りながら、走るように先に進む。

郭のはずれから水堀を見渡すと、水堀は広く、各郭を縦横に区画している。さらには、それぞれの水堀の中央には武者走りが設けられ、そのため水堀は二重堀の状態になっている。敵が侵入したときには、この水堀の中央の道を通るしかなく、両側の高台の郭から雨のように矢玉が降り注がれるのだろう。

武者走りから郭に入るには、小さな木橋を通り、それぞれの郭に設けられた虎口から入ることになり、虎口にも厳重な守りがほどこされていただろう。各郭を繋ぐ武者走りは、遊歩道のように整備され、水堀には小さな木橋が復元されている。当然次の郭に進んだ。

北郭に向って武者走りを進んだ。遊歩道としては快適だ。しかし、戦の時には、両側の郭から無数の矢玉が降り注ぎ、郭の虎口から城兵が溢れるように向ってくる状況が目に浮かぶ。

北郭に入ると、そこは調査がなされたのだろう、板塀がまわされており、井戸跡も各所にあり、多くの屋敷があった様子がうかがえる。北郭から北に抜けると、そこにも中央に武者走りをまわした広い水堀があり、こちらが大手口らしい。

築城時期を考えれば、その大きさといい技巧といい、傑出したものだ。しかし北畠氏も内紛により勢力が衰え、難攻不落とも思えるこの城も、結局大浦(津軽)為信により攻められ没落した。栄枯盛衰諸行無常である。

現在、この地には観光のための模擬天守など妙な建物などもなく、往時の地形を良くとどめている。復元整備は喜ばしいことだが、時代考証に沿ったものであればと願うばかりだ。

浪岡城址で興奮の一時を過ごし、思った以上に時間を取ってしまった。大急ぎで城址近くを数ヶ所まわった。それでも、金光上人の墓と川原館跡は探しきれないでしまった。この日はなんとか三内丸山遺跡を写真に収めたいと思っていた。

浪岡は近いうち再訪することとして、国道7号線を三内丸山遺跡に向った。時間はすでに3時を過ぎている。「秋の陽はつるべ落とし」とは良く言ったものだ。車を走らせ、信号で引っかかる度に光量が小さくなっていく。

フェリーの埠頭の案内表示がある。そこには保存された連絡船八甲田丸がある。そこにも行きたいのだ。国道7号線を左に進めば油川城跡があるはずでそこにも行きたいのだ。しかし夕暮れの三内丸山遺跡を思い描きながら、遺跡の標識のある交差点から7号線を右に入った。

三内丸山遺跡はそこから3kmほどのところにあった。すでに4時だ。昨日は小雨交じりの天気だったこともあり、4時には写真を取れる状態ではなかったが、幸いなことに今は少し青空が出ており、なんとか写真はとれそうだ。

大きな駐車場があり、すでに観光客はまばらであることを良いことに、入り口にもっとも近いところに車を停めて、案内表示にしたがって入り口に走った。しかし少し驚いた。時間がないので資料館などはパスしようと思っていたのだが、屋外の遺跡は、一旦建物に入ってからその向こう側にあり、他からは入れないようだ。

この遺跡は、発掘調査以来大きな話題になり、青森きっての観光資源となっており、それを保護するためには良い方法かも知れない。受付のお嬢さんの「5時までです」の声を後ろに聞き、遺跡に飛び込んだ。目の前に復元された縄文遺跡が広がる。遠くにあの有名になった縄文タワーの「大形掘立柱建物」がある。遺跡の原が夕暮れの光の中にある。一瞬タイムスリップしたような気持ちになった。

陽は刻々と暮れつつある。丘を駆け下り、まずは真直ぐに「縄文タワー」まで走り、夕暮れのタワーの写真を数枚撮ったことで少し落ち着いた。改めて周囲を見回した。広々とした敷地内に、大型の竪穴住居一棟と、複数の小型の竪穴住居が点在している。

しかしふと思った。規模からいえば、私の住む宮城県の大木囲遺跡なども負けてはいない。しかし、知名度から言えば圧倒的に三内丸山遺跡のほうが知られている。三内丸山には特徴的な「縄文タワー」があるが、それだけではないだろう。

青森の方々の多くにとっては、この縄文遺跡の住人たちは「先住民」ではなく、現代にそのDNAを直接繋いでいるのかもしれない。中央の弥生文化とは異なる、縄文文化から現代に直接つながるものをそのDNAで感じているのかもしれない。

長い間、教科書的な歴史では、弥生文化に先行していた縄文文化は、いわば「原始人」の「野蛮な」文化と見られてきた。しかしそうではなかったことが、東北の数々の調査で明らかになってきた。この三内丸山遺跡はそれを明らかにしてくれた。

青森の方々のこの遺跡に対する思い入れは、自分たちの直接的な祖先に対する畏敬の念があるのかもしれない。宮城県の大木囲遺跡や他の縄文遺跡に対する思いは、「先住民」の遺跡との思いがあり、どこか他人事のようで希薄であるような思いを感じる。

一通りまわり、日が暮れはじめた空にそびえる縄文タワーを、再び念入りに写真に収めた。

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