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昨日は碇ヶ関から黒石市内に入り、こみせ通りなどを写真に収め、黒石に宿泊した。この日は例によって、旅館につくってもらったおにぎりを持って、朝早く出発した。この日もやはり小雨が降っている。昨日、探しあぐねた、田村麻呂伝説のある「白山姫神社」を訪れ、その後、「もみじ山」に向った。雨が強くなりはじめた。

雨の中の紅葉も悪くはないのだが、私の技術では、その美しさを十分にカメラに収められないことが問題だった。それにしても雨が強い。もみじ山は、白山姫神社からすぐの所にあった。あたりは雲の中のように乳白色で覆われていたが、もみじ山だけは淡く紅葉を浮き立たせていた。山麓につくと、丁度もみじ祭りのさなかで、露店が出ていたが、朝早い時間のため、まだ訪れる者もなく、露店も開いてはいない。

雨は土砂降りになってきた。ワイパーが効く範囲なら、雨も気にせず歩き回るのだが、どうにもならない。雨が小降りになるのを待ちながら車中で朝食をとり、少し小降りになったのをまちかねて、ビニール袋にカメラを入れて飛び出した。

このもみじ山は、弘前藩主が京都から取り寄せたもみじを植え、「ちいさな嵐山」と言われているということだ。麓を流れる川に流れ落ちる小さな滝、赤い橋の欄干、神社の小さな祠には紅葉の傘がかかっている。その紅葉の傘の下に駆け込むようにしながら写真を撮った。

しかしそれでも雨は容赦なく紅葉の傘を破り、次第に強くなっていく。ついには土砂降りになり、神社脇の祭りのテントの中に駆け込み雨宿りしたが、小降りになる様子もない。これでは「雨の中の紅葉の美しさ」などと言ってられる状況ではなく、あきらめて撤退となった。

帰ってきてからのことだが、結局、雨粒が随所に写り、そのまま使える写真は殆どなかった。結局は、ズルをして図形ソフトで雨粒を消し、修正したのがここに掲載した写真である。

土砂降りのもみじ山を後にして、市街地方向に6kmほど戻る途中に、南部氏一族の千徳氏の浅瀬石城跡がある。当初は、石川城とともに、南部氏の津軽支配の拠点だったものが、千徳氏は津軽為信と結び、南部氏と対峙するようになったようだ。しかし、豊臣秀吉の小田原征伐には、津軽為信が参陣し、千徳氏は留守にまわったために、奥州仕置きで千徳氏は津軽為信の支配下に置かれることになった。結局、津軽氏と千徳氏は対立し、浅瀬石城は攻められ、千徳氏は滅亡した。

城は浅瀬石川の河岸段丘上に築かれた平山城で、現在城跡はリンゴ畑になっている。城跡の入り口に城址碑があり、地元の方々が立てたと思われる解説版があり、かろうじて城跡だということがわかる。それでも、素朴な解説版に惹かれ、リンゴ畑に踏み込んだ。

台地上はすべてリンゴ畑のようで、遺構らしいものは見当たらない。小雨が降り続いていることもあり足場は悪く、ズボンはびしょぬれ、靴の中まで水がしみこみグチャグチャ。それでも、生来のズボラが幸いして?あまり気にならない。それでも、東西に延びる幅10メートルほどのくぼ地があり、空堀にも見える。

津軽為信は2500の軍勢で浅瀬石城を攻撃、千徳政康ら2000の城兵は津軽勢に三度突入して三度撃退したが、為信の調略により千徳氏の家臣団は分裂し、ついに落城し、政康は自害した。

この地の近くに、千徳氏の怨念がこもっているとする「一本杉」があり、この地の住民たちが大切にしている。東北縦貫道の工事の際に、この杉が路線に入り、切り倒されることになったが、災いがあってはと、移植保存され記念碑が建立されている。

田舎館村の田舎館城跡をまわった後、西に走り藤崎町に向った。藤崎の地の最大の目的地は藤崎城跡である。藤崎城は、十三湊に進出する前の安東氏の本拠だったはずだ。

戦国期を乗り切り、近世まで残った一族として、安東氏は大変興味深い一族だ。安倍比羅夫、安倍貞任に始まる一族と伝えられ、十三湊に一大文化圏を築き、南部氏に攻められ蝦夷地に逃れ、さらに一族は秋田で大勢力を築き、秋田氏、生駒氏と姓を変えながら、大名家として明治まで存続した。波乱万丈の一族である。

津軽の地は、前九年の役や、平泉征討の後の残存勢力がそれぞれの地に土豪としてそれなりに残っていた地である。鎌倉期に入り、中央から地頭が入ってくると、かつての土豪たちは圧迫されていったのだろう。しかしその中で、安東氏は中央とは別の形で有為転変しながらも強大な力を付けて行く。

藤崎の八幡神社を探し、その近辺だろうと歩き回り標柱を探し当てた。何のことはない、国道339号線と7号線の交差点近くの、分かりやすい場所にあった。標柱は、かつての土塁跡と思われる上にあり、誇らしげに「安東氏発祥の地」とあった。しかし遺構はこの土塁が残っているだけのようだ。周辺の地形に、堀跡の痕跡の様なものも見つけたがはっきりとはしない。

市街地の平城は、油断すればすぐに開発の波に飲み込まれてしまう。ましてこの城のように、領主がこの地を離れ、その後の領主も次々に代わっていったような場合はなおさらだろう。土塁だけでも残っているのは幸いとしなければならないのだろう。「安東氏発祥の地」として誇りを持ち、この土塁だけでも後世に長く残ってもらいたいものだと思った。

藤崎町の藤崎城跡など町内数ヶ所を周り、国道7号線を浪岡に向った。天気は少し回復していたが、それでもこの天気で、この時期ならば、3時半を過ぎれば、写真を撮るのが困難になることも考えられる。夏泊半島にも行きたかったが、今回は無理だろう。それでもせめて三内丸山遺跡まではたどり着きたかった。

浪岡は、勿論南北朝期に活躍した北畠氏が落ち延び、支配した地である。浪岡への途中、時間を気にしながら北畠一族の居城だった水木城跡に向った。

見当をつけていた地は一面のリンゴ畑だった。農道に入り、車を停めて、リンゴ畑で作業をしていたおじいさんに尋ねると、ラッキーなことに、まさにこの地がその城跡だという。さらにご親切に、作業を止めて案内説明していただいた。

この方の畑の周囲に、連続した窪地が続いている。水堀跡だ。以前は水田で堀の様子が残っていたというが、今はリンゴ畑になっている。おじいさんに教えていただかなければ見落としただろう。おじいさんは「堀のままにしておけば良かったのに、リンゴを植えても、良いリンゴは出来ないのに」と残念そうだった。

おじいさんの話では、この地の城主は、浪岡の北畠氏宗家に叛旗を翻したが、徹底的に制圧されたという。そして、この地から見える、広々と広がるリンゴ畑の先のはやしや集落を指差しながら、「あそこに落ち延び、そこからあそこまで逃げ…」と、450年ほど前の話を昨日の事のように教えてくれた。この地の方々には、北畠時代の歴史が生きているのだ。

私は「歴史家」ではない。しかし私の旅の目的は、このおじいさんの中で生きているような「歴史」を伝えることだということを改めて思った。

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