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大崎氏は清和源氏足利氏の一門で、斯波氏の分かれである。建武年間のはじめ(1334頃)、陸奥守に補任された北畠顕家は義良親王(のちの後村上天皇)を擁して多賀城に拠り、独立した政庁を創設した。これに際して、葛西・伊達・南部氏らの豪族が南朝方として忠誠を誓ったことで、奥州は南朝の勢力が強大化した。

北畠顕家が、和泉石津の戦いで戦死した後、奥州北朝方の中心として石塔義房が奥州入りし、さらに、貞和二年(1346)、幕府は吉良貞家、畠山高国の両管領を下向させた。以後、吉良・畠山の両氏が石塔氏を援け、三者協力して奥州における足利政権の基盤の確立につとめた。

その後の南北朝時代後半は、吉良・畠山・石塔氏との勢力争いに競り勝った斯波氏が奥州管領として奥州に勢力を拡大する。文和三年(1354)、斯波家兼が陸奥に入り、その後の大崎氏の祖となった。

家兼の死後、嫡子直持が家督をついで奥州管領となり、次男兼頼は羽州探題として出羽に入り、羽州南朝方の中心勢力であった寒河江大江氏を下すとそのまま羽州に土着して最上氏の祖となった。

家兼のあとを継いだ直持は師山城に拠り、志田・加美方面に領主権を拡大、直持のあとは詮持が継承した。この直持、詮持の代に管領職を世襲し、奥羽の監督官として君臨した。

しかし、明徳三年(1392)、奥州、羽州両国が、鎌倉府の足利満兼の直轄支配下に置かれることになり、応永六年(1399)に満兼は弟の満貞と満直を奥州の固めとして、それぞれ稲村・篠川に下向させた。稲村に下った満直は、伊達氏と白河氏に対して所領の分与を要求し、伊達氏はその過大な要求に対して、大崎氏を誘い鎌倉府に背いた。

大崎詮持はこのとき鎌倉にあり、ただちに帰国の途についたが鎌倉軍の追撃を受けて自害し、孫の満持だけが大崎に帰ることができた。この時期、将軍足利義満と鎌倉府の満兼は対立しており、幕府は大崎氏や伊達氏に鎌倉府を牽制させ、応永七年(1400)には、大崎氏は将軍から新たに奥州探題職を与えられ、東北地方における支配権を得た。

これにより大崎氏は、探題職として行政・軍事にわたる強力な権限を行使して、大崎・名生・小野・新田・中新田などを根拠地として大崎五郡に勢力を拡大していった。大崎氏はこの頃から、斯波に代わって大崎を名乗るようになった。

大崎氏は、黒川郡三十三郷、志田郡四十四郷、加美郡十八郷、遠田郡六十六郷、栗原郡、羽州最上郡四十八郷で、あわせて三十五万石程であったとされる。堂々たる大大名であった。そして、大崎氏の居城は、初期には小野御所、師山城、中新田城など移動したようだが、後には名生城が府城となったようだ。

名生城跡は、現在は畑地と住宅地になっているが、城域内にわずかに土塁跡や堀跡の遺構が散在する。広大な段丘面を利用した平城で、規模は雄大で、当時の大崎氏の権勢の大きさを示している。大館、小館、内館、北の館などに分かれており、本丸にあたる大館は東西九十四間、南北六十三間の広さである。幅5~25m、深さ3~5mの大小の堀を巡らし、なかでも内館と北館、二の溝を画す堀は幅13m、深さ5 mにもおよぶ。

大崎氏は、奥州探題職を得たことにより、奥州武士たちに将軍御教書の施行、所領の安堵・宛行などを行うことができ、近隣領主を掌握し、代々探題職を受け継ぎながら、大崎を本拠に強大化していった。

大崎氏は奥州探題として格式としては国人勢力の頂点にあったが、南北朝の動乱を生き抜いた国人たちは、互いに合従連衡し、虚々実々の駆け引きを行い、婚姻関係で結びつき、勢力拡大に努めていた。そこからもたらされる国人らの独立性は、容易に突き崩しがたいものがあり、奥州探題の大崎氏にしても、実力をともなう現実政治としては、大名・国人らの発言力を無視することはできず、かれらもまた大崎氏の口出しを許さないという力関係ができつつあった。

大崎氏内部においても、志田郡の古川氏、遠田郡の百々・涌谷氏、栗原郡の高泉氏、黒川郡の黒川氏などが重きをなし、里見紀伊・仁木遠江・中目兵庫・渋谷備前が重臣として、侍大将として氏家・柳目・伊場野・谷地森・宮崎・新田・小野田の諸氏が知られ、これらの一族・被官・豪族たちも、大崎氏に服属しているものの、いずれも独立した領主であり、利害が相反する場合は離反することが多かった。このような状況から、大崎氏は権威こそ保ってはいたが、大名・国人からの圧迫、一族や配下の豪族らの離反に悩まされることになる。