岩手県葛巻町城内小路

2016/09/25取材

葛巻の地は内陸部と海岸部とを結ぶ宿駅の所在地にあたり、葛巻城はその交通の要衝を扼する位置にある。しかし、厳密にはその位置は確定しておらず、この八幡館跡とする説と、その北側の鏡沢館跡とする説がある。

この八幡館は、馬淵川に面した独立丘陵で、川が三方を巡る要害の地にあり、山腹には南部信直に由来する八幡神社が鎮座する。山頂部が主郭と思われ、北東下に帯郭が配されているが、中世の山城の技巧はあまり見られず、蝦夷時代からのチャシを継承したものとも思われる。

築城年代は定かではないが、城主葛巻氏は工藤氏の一族と伝えられ、、文治5年(1189)に、岩手郡に地頭職を賜わった工藤行光の分流が、応仁年間(1467~68)に葛巻村に住したとも伝えられる。

戦国期には、葛巻掃部亮光祐が南部氏に臣従しており、葛巻村に1260石を領していたという。光祐の後は信祐、政祐と続き、葛巻政祐は九戸政実の娘を娶っていた。

天正19年(1591)の九戸の乱に際しては、九戸政実は葛巻氏に味方するよう説得したが、葛巻氏はこれを拒否し南部方についた。このため政実は葛巻城を攻めたが、葛巻氏はこれを撃退し、南部信直より千石の加増を受けた。しかしその翌年の天正20年(1592)に葛巻城は破却された。