岩手県田野畑村田野畑

2012/04/01取材

この地は、嘉永6年(1853)の三閉伊一揆の頭取である畠山太助の生家があった地である。墓は、この近くの本誓寺にある。

太助の家は、田野畑村の肝煎で、太助はその三代目として生まれた。当時は連年の凶作の中、南部藩は藩財政が逼迫し、領民には重税が課され、更には御用金も課され、領民は生活苦にあえいでいた。

この三閉伊通と呼ばれた三陸沿岸地方は、砂鉄が豊富に産出し鉄の生産が盛んに行われ、また漁業も盛んだった。藩は、農産物に留まらず、これらの新しい産業にも重税をかけることになり、さらなる御用金も課した。

この度重なる重税に耐えかねたこの地の領民は、田野畑牛切の弥五兵衛を頭取として、弘化4年(1847)一揆を起こした。この一揆は、約1万2千人の大規模なものとなり、一定の成果は得られたものの、後に南部藩はその約定を悉く破り、頭取の弥五兵衛も捕らえられ処刑された。

太助の父多次郎も、天保7年(1836)の岩泉へ押し寄せた一揆で代表5人の内の一人で、また弘化4年(1847)の一揆にも弥五兵衛とともに先導的な立場で参加していた。

その後、弘化4年の一揆の成果が元の木阿弥となり、この地の領民の間では藩政に対して怨嗟の声が高まり、嘉永6年(1853)弥五兵衛らの意思を受け継ぎ、太助を頭取として再び一揆が起こった。

一揆勢は「小○(困るの意味)」の旗を立て南下し、釜石に着いたときは、一揆衆は1万6千人に達していた。その半数は釜石から藩境を越え、仙台藩に越訴した。これにより、南部藩内の騒動は公になり、仙台藩に残った45人の代表と仙台藩と盛岡藩の度重なる交渉の結果、その要求の多くを認めさせ、さらには一揆参加者の処罰も一切行わないという「安堵状」を得て一揆は収束した。

この交渉の過程で交渉に行き詰まり代表の45人が動揺した際に、太助は「衆民のため死ぬることは元より覚悟のことなれば、今更命は惜しみ申すべきや」といって、動揺を沈めたと云う。

その後太助は、明治6年(1873)の地租改正反対一揆に連座し、取調べ中の同年5月、止宿していた盛岡の牛方宿で抗議の自殺を遂げ、58歳の生涯を終えた。